三沢淳単語

ミサワジュン
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三沢淳(みさわ じゅん)とは、元プロ野球選手である。

概要

1952年10月1日生まれ。島根県浜田市出身。中学時代から本格的に野球を始めた。

工業高等学校に進学。エースとして活躍し、3年時に連続で甲子園大会に出場。ちなみに同校にとっていずれも甲子園大会初出場であった。

1970年ドラフト会議にて、中日ドラゴンズから3位名を受けたが、入団を保留し、新日本に入社。「プロより先にをかけてくれたのが新日鉄だったから」というのが理由であった。同年都市対抗野球大会に出場し、リリーフエースとして毎試合登板して優勝に貢献、小野賞にも選ばれた。その後、1971年ドラフト会議開催4日前に中日に入団。

初年度の1972年リリーフを中心に33試合に登板し、3勝5敗、防御率3.67を記録

1973年リリーフ中心の起用ながら規定投球回に到達し、10勝8敗、防御率2.56を記録

1974年先発投手の一として活躍するだけでなくリリーフとしても登板。11勝9敗、防御率3.45を記録し、セ・リーグ制覇に貢献。

1975年、13勝7敗、防御率3.21を記録し、3年連続で二桁勝利を達成。

その後、2シーズンほど不調に陥ったが、1978年に12勝、1979年に13勝を挙げて復調。1979年シーズンには初めてオールスターゲームにも出場している。

以降も中日先発投手の一として活躍を続けた。

1984年銭トレードで日本ハムファイターズへ移籍。

日本ハムでは登板数自体は少なかったものの、1985年は15試合で1勝、防御率2.06、1986年は5試合で1勝1敗、防御率1.04と安定感を発揮していた。1986年限りで現役を引退

引退後、東海地区で野球解説者として活動。

1996年政治家に転身、衆議院議員を1期務めた。

政治家引退後は野球教室を開き、導者として活動した。

2022年3月3日、中皮腫のため死去。享年69歳。

人物・エピソード

シュート武器打の山を築いたアンダースロー。厳しく内を突く投球スタイルから、与死球の数は多かった。

読売ジャイアンツ戦に強く、巨人キラーとも言われていた。

通算成績

投手成績

通算:15年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 505 36 12 107 106 8 --- .502 1860.1 542 914 894 788 3.81

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