塹壕の聖母とは、スターリングラード攻防戦中に描かれた聖母マリアの絵である。
概要
時は第二次世界大戦真っ只中の1942年6月28日。ドイツ軍の精鋭第6軍とルーマニア、イタリア、クロアチア独立国、ハンガリーからなる枢軸国軍30万が、都市スターリングラードを守るソ連の第62軍と交戦。緒戦こそ枢軸軍が優勢だったが、無尽蔵に戦力を有するソ連軍はシベリア方面から100万の戦力を移動させ、11月19日に攻撃を開始。外縁部を守っていたルーマニア軍は粉砕され、第6軍は包囲されてしまった。救助のためマンシュタイン元帥率いる戦車隊が派遣されたが、撃退されてしまう。補給は断たれ、ヒトラー総統の死守命令により撤退する事も出来ない。…もっとも、退路はソ連軍に塞がれて逃げたくても逃げられなかった。やがて季節は冬に入り、厳寒が襲った。まともな冬用の装備を持っていないドイツ兵は次々に凍死し、度重なる戦闘からくる疲労で極限状態に陥った。
12月24日、この日は氷点下35℃だった。例年の気温は氷点下50℃なので、これでもまだ暖かい方だったが、凍りつくような寒さに変わりは無かった。第16装甲師団の軍医クルト・ロイバー中尉は、少しでも兵士を勇気付けようとクリスマスの絵を描く事にした。ソ連軍から押収した地図の裏に木炭で、赤子を抱いた聖母マリア像の絵を描いた。その近くにヨハネ福音書の「licht(光)」「leben(命)」「liebe(愛)」と、「1942 大釜のクリスマス スターリング要塞にて」を書き添えた。この絵は塹壕の聖母と呼ばれ、塹壕の入り口に貼られた。この絵を見たドイツ兵は涙を流して喜び、十字を切る者、頭を下げる者、祈りを捧げる者が現れた。
その後の1943年2月2日、第6軍はソ連軍に降伏。作者のクルト軍医も捕虜になったが、1944年1月20日に死亡し妻子のもとへは帰れなかった。しかし彼が遺した塹壕の聖母は、この絵に感動したドイツ兵によって妻に手渡された。現在はベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会に展示されている。この出来事は絵本にもなっており、後世に語り継がれている。
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