基本データ | |
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正式名称 | ハンガリー Magyarország |
国旗 | |
国歌 | 賛歌 |
公用語 | ハンガリー語 |
首都 | ブダペスト(Budapest) |
面積 | 93,030km²(世界第108位) |
人口 | 約1000万人(世界第80位) |
通貨 | フォリント(HUF) |
ハンガリー(英:Hungary)とは、中央ヨーロッパの国家である。 現地語での名称はMagyarország(マジャルオルサーグ)。
概要
正式名称もハンガリー。やや東よりの中央ヨーロッパ内陸部に位置する国家で、公用語はハンガリー語、首都はブダペストである。国土の大部分は「プスタ」と呼ばれる平原地帯で、国土中央部をドナウ川が流れる。 また、ヨーロッパ随一の温泉大国である。国民の6割以上がキリスト教カトリックの信徒であり、プロテスタントのカルヴァン派の信徒も2割ほどいるとされる。
国民はロシア・ウラル山脈周辺から移住してきた民族を祖として、多くの民族の影響を受け誕生した「マジャル人」である。アジア系の影響を受けているためか、人名の表記を姓→名の順にするのが特徴。名称が似ていることから、「フン族」の末裔であると紹介されることもあるが、あくまでも俗説である。
歴史
国土のハンガリー平原は古代においては「パンノニア」として知られ、先住のパンノニア人のほか、ルーマニアの祖先の一部として考えられるダキア人も住んでいた。紀元前35年に初代ローマ皇帝アウグストゥスにより征服が進められ、前9年にはローマ帝国領、「属州パンノニア」となりローマ化していった。属州パンノニアは森林、オート麦、大麦、水などの資源に恵まれた豊かな土地でもあった。
4世紀にアッティラ率いるフン族が侵入して以降は、パンノニア(ハンガリー)はローマ帝国より独立した。アッティラ没後は政治的混乱期に陥り、6世紀には遊牧民族のアヴァール、8世紀にはフランク王国と支配者がころころと変わっていった。
フランク王国が分裂し衰退し始める9世紀になると、ウラル山脈より遊牧民族のマジャル人がパンノニアに侵入を開始した。大首長アールパード率いるマジャル人は現バイエルンなどの南ドイツにも侵入し、当時のヨーロッパではヴァイキングと並び恐れられた。これに対し、東フランク王オットー1世(後の神聖ローマ皇帝)は対策を講じ、955年、レヒフェルトの戦いにおいてマジャル人を撃退する。
ハンガリー王国(1000年 - 1918年)
以後、マジャル人が治めるこの地はドイツ王国(神聖ローマ帝国)に対する独立性とヨーロッパ世界における王権の正当性を維持・獲得すべく、積極的にキリスト教(ローマ・カトリック教会)を受容した。997年にハンガリー王となったイシュトヴァーン1世(後にカトリックの聖人)は、西暦1000年に土着のアニミズムからローマ・カトリック教会に改宗し、ハンガリーをキリスト教世界(=ヨーロッパ世界)の一員とした。かくして名実ともに中欧の大国ハンガリー王国が誕生したのだった。
王国はハンガリーのほか、現在に当てはめるとスロヴァキアやクロアチア、ルーマニア西部(トランシルヴァニア)にまで至る広大な領域を治めていた。すぐ真南にはキリスト教(ギリシア正教)国である東ローマ帝国が位置していた。このためハンガリー王国はカトリック国であり西欧文化圏にありながら正教圏ともよく接触し、東ローマ皇帝と婚姻同盟を結ぶことさえあった。中欧という位置のせいか西の神聖ローマ帝国とは緊張関係が続くことも多く、この点は北のポーランド王国も同様であった。また、ハンガリー王国はクロアチア方面でアドリア海に接し、婚姻関係からナポリ王国(南イタリア)に影響力を示すこともあり、ヴェネツィア共和国とも面倒な関係になることが度々あった。
1240年のモンゴル軍襲来により、ハンガリー王国の国土は著しく荒廃する。ドイツ人の入植による復興と要塞増築により国力を回復させていったハンガリーは、14世紀にはナポリ王国やポーランド王国と同君連合の形をとるなど勢力を伸ばしていくが、1396年、東南のバルカン半島より来る新興勢力のオスマン朝との戦いに破れる(ニコポリスの戦い)と、絶えず「トルコの驚異」に晒されるようになる。1526年のモハーチの戦いにおける惨敗を機に、国土の大半はオスマン朝の直轄領となり、王位は神聖ローマ帝国のハプスブルク家に転がり込んでしまった。
以後ハンガリーは20世紀に至るまで、名目上はオーストリアのハプスブルク家が治める(彼らからしてみれば)屈辱的な体制が続いた。
1683年、神聖ローマ皇帝かつオーストリア=ハプスブルク家の当主レオポルト1世は、名将オイゲン公やポーランドの有翼重装騎兵隊の助けもあり、オスマン朝による第二次ウィーン包囲を跳ね除けると、それを契機にハンガリー領はハプスブルク家領という形ではあるものの大幅に回復していった。以後ハンガリー王国はハプスブルク君主国・帝国の一部となる。
オーストリア=ハンガリー帝国(1867年 - 1918年)
19世紀に入り、ハプスブルク家のハンガリーを含む「オーストリア帝国」がドイツや北イタリアでの覇権を喪失し、諸民族が民族意識に敏感になっていくと、帝国内でのマジャル人の半独立や自治の要求が加熱していった。皇帝フランツ・ヨーゼフは、ドイツ人だけでは帝国人口の過半数にはならないが、ドイツ人とマジャル人を合わせれば帝国人口の過半数になるという事実から、ハンガリーに大幅な自治特権を与え、国号を「オーストリア=ハンガリー帝国」とした。
しかし帝国政府がハンガリー(マジャル人)にのみ優遇したことに憤慨したチェコやバルカン半島の諸民族は納得せず、民族運動はなおも落ち着きを見せなかった。諸民族はあくまでも「帝国という強大な保護の下で」自治等を獲得しようと奔走していたが、サラエヴォ事件を機に始まった第一次世界大戦では帝国は敗北、完全に崩壊し、諸民族が独立国家を建設していった。ハンガリーもその例に漏れず、1918年に独立する(ハンガリー民主共和国。第一共和国とも)。
独立から冷戦期まで
独立当初の貧弱な軍備によりハンガリーはトランシルヴァニアをルーマニアに、北部地域をチェコスロヴァキアに奪われてしまう。1920年にはホルティ・ミクローシュの政権下で再び王国と改めるも、パリのトリアノン条約により賠償金と失地が確定してしまう。
復権を目指すハンガリーはその後、枢軸国の一員としてナチス・ドイツと協力し失地回復を推し進める。第二次世界大戦中の1940年11月23日に日独伊三国軍事同盟へ加入し、日本とも同盟国となる。1941年6月に独ソ戦が勃発するとソ連に宣戦布告、12月8日に真珠湾攻撃が生起するとアメリカに宣戦布告。他の枢軸国とともに戦っていたが、1944年に入ると敗色が濃厚になってきた。劣勢と判断するや否や、ホルティは連合国との単独講和を模索し始める。しかしこれがナチス寄りの政党の逆鱗に触れてしまい、摂政の地位から降ろされて代わりに親独派のストーヤイ・デメが首相となった。東部戦線の崩壊に伴い、ハンガリー国内にソ連軍が迫ってくるとホルティはストーヤイを解任して親米英派のラカトシュ・ゲーザ陸軍大将を首相に据えた。当然ドイツ軍が黙っているはずがなく、10月15日にパンツァーファウスト作戦を行ってホルティの息子を誘拐。ホルティを政界から追放し、代わりに親独組織の矢十字党を率いるサーラシ・フェレンツが首相となった。しかし既にハンガリー国内にはソ連軍と寝返ったルーマニア軍が侵入してきていた。そして1945年には、ソ連軍により首都ブダペストが蹂躙された。ドイツは敗戦し、翌1946年にはハンガリー王制が廃止された。ハンガリーはソ連影響下の東側諸国としての道を歩むことを余儀なくされたのである。
1950年代には反スターリン主義運動が起こり、政府は民衆懐柔案として人気のあったナジ・イムレを首相に再就任させたが、これがソ連とその軍の介入を招き、2万人ほどの死者と20万人ほどの難民を出してしまう。政府は動乱を収めるべくソ連との協調路線に踏み切ったが、1980年代にソ連のゴルバチョフが「ペレストロイカ」を推進すると、ハンガリーは急速的に民主化していった。一党独裁を捨て、西欧流の社会民主主義を導入し、国号を「ハンガリー共和国」とした。このようにハンガリーの民主化は他の東側諸国に比べ幾分か早くに行われた。
1989年に西ドイツへ亡命を試みる東ドイツ市民が参加した政治集会、いわゆるピクニック事件がオーストリアとハンガリーの国境、「鉄のカーテン」を超えて行われると、ソ連は瓦解へと向かっていき、1991年には崩壊し、冷戦は終結した。
現代
1996年には経済協力開発機構(OECD)、1997年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟。また同年、経済は好転し旧東側諸国の中では比較的安定した国家となった。
2004年には遂にヨーロッパ連合(EU)に加盟した。2012年には国号を「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」へと変更し、現在に至る。
日本とハンガリー
日本とハンガリーは同じ枢軸国だった事もあり、歴史的・政治的問題が無く良好な関係を維持し続けている。戦後はハンガリーがソ連の衛星国になった影響で中々国交が回復しなかったが、1959年に回復。翌年には両国ともに大使館を設置している。その後は経済や文化の面で交流している。
2000年にハンガリー建国1000年を祝して日本で「ハンガリー・フェスティバル」が催されるなど、日ハ間の文化交流は極めて良好である。2009年は両国の国交樹立140周年かつ外交再開50周年にあたり、「日・ドナウ交流年」として様々な記念文化行事が開催された。
イギリスのHP「Clickclickclick.com」が開催する「世界クリック選手権」において、日本とハンガリーは熾烈な優勝争いを繰り広げている。2007年リーグと2008年リーグではいずれも日本が勝利を収めたが、各ゲームごとではハンガリーが優勢になることも多く、2009年リーグでも両国のデッドヒートが見られた模様。
著名なハンガリー人
上記の通り、名前はすべて姓→名順の表記である。 半角括弧内はより一般的な表記・呼称。
- イシュトヴァーン1世(ハンガリー国王、カトリックの聖人)
- バルトーク・ベーラ(作曲家)
- コダーイ・ゾルターン(作曲家)
- リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)(作曲家)
- ドホナーニ・エルネー(エルンスト・フォン・ドホナーニ)(指揮者)
- ドラーティ・アンタル(アンタル・ドラティ)(指揮者)
- ショルティ・ジェルジ(ゲオルグ・ショルティ)(指揮者・ピアニスト)
- オルツィ・エンムシュコ(バロネス・オルツィ)(推理作家)
- ナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)(数学者)
- プスカーシュ・フェレンツ(サッカー選手・指導者)
- マヨロシュ・イシュトヴァーン(イストバン・マヨロシュ)(レスリング選手)
- ルビク・エルネー(ルービックキューブ発明者)
関連動画
関連項目
- ハンガリー語
- サッカーハンガリー代表
- 神聖ローマ帝国
- 東欧の歴史
- 中欧
- 国の一覧
- トランシルヴァニア民謡(ハンガリアン・ジプシーではなく、ハンガリーとルーマニアの伝統音楽)
- ハンガリアン・ジプシー(ハンガリーのロマの音楽)
- 矢十字党
- ハントンライス
- 11
- 0pt