宇都宮正綱単語

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宇都宮正綱(うつのみや・まさつな 1447 ~ 1477)とは、下野守護大名である。

概要

下野宇都宮氏16代当室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。中の祖・北関東覇者などで有名な宇都宮成綱

芳賀氏出身でこの血縁関係が後に永正の内訌及び宇都宮錯乱を引き起こしたとされてきたが、近年それらを覆す新説が登場した。

新説は『戦国大名宇都宮氏と中』・『【中世宇都宮氏の世界下野・豊前・伊予の時る』・『下野中世する』などからによるもの。

参考:ここまでの下野宇都宮氏

新旧説比較

  旧説 新説
1447 ~ 1477 1447 ~ 1477(変化なし)
家族関係 芳賀成高の二男。
宇都宮持綱(13代)の
芳賀高益。
妻は石塚上杉顕実上杉房顕
子に宇都宮成綱(17代)・宇都宮興綱(19代)・武茂兼綱・塩谷孝綱
宇都宮等綱(14代)の二男。
小山満泰の
宇都宮明綱(15代)。
妻は石塚上杉房顕
子に武茂兼綱・宇都宮成綱(17代)・塩谷孝綱・玉隣慶(結城政朝正室)
伯父小山持政(小山氏14代)。
生涯 方の祖宇都宮持綱(13代)の実家である武茂氏を再し武茂太郎を名乗っていたが、宇都宮明綱が跡継ぎなく世したため宇都宮氏に養子入りして16代当となった。 宇都宮持綱(13代)の実家である武茂氏を再し武茂六郎を名乗っていたが、実宇都宮明綱が跡継ぎなく世したため宇都宮氏と武茂氏の両督を継いで16代当となった。
- 明綱・正綱は伯父小山持政からの後見を受けており、さらには宇都宮氏の中を介入されていたがそれほどにまで当時の宇都宮氏の勢は衰退していた。その一方で正綱は有な一門の武茂氏や塩谷氏を従属化させるなど戦国期の宇都宮中の原を築いた。
享徳の乱では明綱同様に古河足利成氏に従い各地で転戦し関東管領上杉氏と戦った。1470年頃には芳賀高益の献策により一時的に幕府側に寝返った。1477年に上野した。 享徳の乱では持政に従い古河足利成氏を味方し各地で転戦した。1470年頃に重臣・芳賀高益の献策により一時的に幕府側に寝返った。1477年に曲の戦い(上野)でした。

補足

  • 宇都宮等綱の子である宇都宮明綱は、『武事紀』に「長子四郎」と記されており、等綱には明綱以外の実子がいた可性を示している。
    • ただし『武事紀』自体は江戸時代初期の成立であることには注意が必要か。
  • 1466年に室町幕府将軍足利義政から正綱に充てた御内書に「等綱、御方において忠節他に異なり。然らば速に馳せ参り、戦功を致さば、恩賞有るべきなり。 六月三日 宇都宮三郎とのへ」と記されており、正綱は等綱の実子であることが示されている。この「亡等綱」を等綱の養子と捉えることも可だが、宇都宮等綱は享徳の乱では幕府に味方しており、鎌倉方を味方し、宇都宮明綱を擁立して等綱と敵対している芳賀氏からわざわざ養子を迎えることは考えられない。(『下野中世する』6 宇都宮正綱の出自より)

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