「結城政朝」(ゆうき まさとも 1479~1547)とは、下総結城家中興の祖として知られる下総国の戦国大名である。北関東の覇権を巡って争った戦国大名宇都宮成綱、佐竹義舜両名亡き後、周辺勢力に大きな影響を与えた北関東屈指の有力者の一人。
人物概要
下総結城家第15代当主。父は結城氏広で子に結城政直、結城政勝、小山高朝、宇都宮尚綱の正室。
父が2歳の時に没したために3歳という幼齢で家督を相続し、下総結城家第15代当主となる。しかし重臣の多賀谷和泉守(多賀谷朝経嫡子)による専横を許してしまい、さらには一門の山川景貞が結城家を掌握するために子を養子として送り込むなど非常に危ない状況であった。
元服後、1499年8月に母の実家である小田家や家臣の多賀谷基泰の力を借りてクーデターを起こし、多賀谷和泉守を誅殺して実権を回復することに成功する。
その後は同族の山川家や水谷家、多賀谷家らとの主従関係を調整したり、近隣の有力者である宇都宮成綱から姉(娘説もある)である玉隣慶珎大姉を正室に迎え婚姻同盟を結ぶなどの周辺勢力との関係強化に専念した。1506年に古河公方の内紛が発生すると、政朝は小田政治とともに足利高基の古河公方擁立を目論む宇都宮成綱を支持した。1514年には下野国で合戦が勃発し、政朝は宇都宮成綱からの加勢要請で下野国宇都宮竹林に山川家、水谷家を率いて出陣し、佐竹義舜ら2万の大連合軍と戦い勝利に貢献した(竹林の戦い)。この合戦の勝利によって古河公方足利政氏支持の勢力は次々と高基派へと立場を変えていき、足利高基の古河公方の地位は安定した。また、同族である小山家は政氏支持だったため、当主である小山成長は隠居を余儀なくされた。それを契機に政朝は小山家の乗っ取りを模索し、当主継承に干渉していった。
当時北関東の覇者とも言えた宇都宮成綱が1516年に没し、成綱と覇権争いをしていた佐竹義舜が1517年に没すると政朝は成綱の後継者である宇都宮忠綱との関係がうまくいかず、宇都宮家と決別し、旧領であった下野国中村一二郷の奪還を目論むようになった。宇都宮家で大永の内訌が発生すると政朝は機会を逃さず内訌に介入。芳賀高経や笠間資綱・綱広父子の宇都宮興綱擁立に協力し、1523年に下野国宇都宮猿山で合戦を行い宇都宮忠綱を打ち破り、中村一二郷の奪還に成功する。宇都宮家の内訌に乗じて政朝は結城家の勢力を大きく広げた。尚、宇都宮家はこの内訌が原因で大きく弱体化していった。
政朝は天文年間までに小山家に子の小山高朝を送り込んで乗っ取りに成功する。その後は小山家と同盟を結び、小田家や宇都宮家との抗争を有利に進めて北関東屈指の実力者へとなった。
政朝は1527年に子の政勝に家督を譲り隠居するが、実権は政朝が握っていたという。1545年7月に没した。享年69
補足
ゲームの中の政朝
信長の野望
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 81 | 智謀 | 93 | 政治 | 87 | 野望 | 81 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 67 | 知略 | 75 | 政治 | 76 | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
| 革新(※形式のみ) | 統率 | 75 | 武勇 | 68 | 知略 | 84 | 政治 | 85 | ||||||||
| 天道 | 統率 | 76 | 武勇 | 71 | 知略 | 78 | 政治 | 86 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 80 | 武勇 | 66 | 知略 | 78 | 政治 | 81 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 77 | 武勇 | 65 | 知略 | 76 | 内政 | 78 | 外政 | 84 | ||||||
関連項目
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