宇都宮成綱単語

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宇都宮成綱(うつのみや しげつな 1468~1516)とは、下野宇都宮の祖として知られる下野戦国大名である。

概要

下野宇都宮17代当南北朝時代以降の内紛などでく間に弱体化し窮地に陥っていた下野宇都宮において、臣団の再編や支配体制の立て直しなど、戦国乱世を生き残るための基盤を作りあげ宇都宮を救った中の祖。また周辺勢ともしく争い、宇都宮戦国時代初期における北関東の大勢へと導いた傑である。

人物

下野宇都宮16代当である宇都宮正綱に武茂兼綱、塩谷孝綱、結城政朝の妻。子に宇都宮忠綱、宇都宮尚綱宇都宮興綱落合(庶子だと言われている)、瑞雲院(古河足利高基の妻)。(※子供たちの関係については諸説あり。詳細は綱の項も参照)

1477年、10歳の時にが他界し、若くして下野宇都宮の当となる。その後、である武茂兼綱が叛乱を起こすが、臣の芳賀高や古河方・足利成氏支援により鎮圧した。この叛乱が起こった具体的な年代は未だ確定しておらず、足利成氏白河結城一門の小峰氏に送った書状から、1478年~1497年の間に起こったと考えられている。この一件以降、古河方と宇都宮成綱の関係は密になっていき、自らのを後の古河方になる足利高基(成氏の子)にがせている。一方、一門の武茂氏は宇都宮中でのをほとんど失い、幼い当が続いてきた背景も相まって芳賀高を筆頭とする重臣・芳賀氏の台頭を招く事になる。しかし有能芳賀高の存在は成綱にとって大きなメリットでもあり、高は奉行人として成綱を補佐し、落した宇都宮の権強化に大いに貢献した。

  • なお成綱の宇都宮正綱は通説では芳賀氏からの養子といわれ、それに従うなら成綱と芳賀高は従兄弟の関係にあたる。こうした背景もあって、重臣であると同時に一門衆でもある芳賀氏の存在が必然的に大きくなっていく
  • 近年では「正綱は14代当宇都宮等綱の実子であり、芳賀氏からの養子縁組はなかった」との説もある

1500年に突入すると芳賀高はし、子の芳賀高勝が後任となったが、高勝は徐々に成綱を軽視して政治を専横したため、両者の間では確執が生じ始める。

1506年に古河方・足利政氏とその息子足利高基が対立すると、成綱は宇都宮に逃れて来た高基を護した。更に高基を新方として擁立し、その権威を利用し勢を拡大しようと企てた。これに対し、ナンバー2の芳賀高勝は猛反対し政氏支援の態度を取ったため、中は混乱に陥る(永正の内訌と呼ばれている)。さらに高勝は成綱の失脚を企て、成綱の子・宇都宮忠綱を擁立し、成綱を強引に隠居に追い込んだ。

しかし、成綱が隠居したのは握を狙った策であり、実質的な当は成綱が握り続けていた。ほぼ同時期に末塩谷孝綱を一門の塩谷に養子に送り込むなど、巻き返しの準備を着実に進めていた。実際に忠綱が当になってからの書状には「時義においては伯耆守(塩谷孝綱)申し越さるべく」と書かれており、成綱の思惑によって塩谷孝綱が若き当である忠綱の後見人及び意思伝達を任されていた。

1512年に芳賀高勝を粛清を兼ねて殺したことがきっかけで、『宇都宮錯乱』と呼ばれる2年にも渡る大規模な内紛が発生。臣の壬生綱重などの活躍により鎮圧に成功し、芳賀氏のを大きく弱体化させた。

  • 芳賀は滅亡したわけではなく、高勝の芳賀高経が後継者となって雌の時を送る事になり、後の大永の内訌の一因にもなる

1514年、宇都宮錯乱を鎮圧して間もなく、足利政氏を支持する佐竹義舜岩城・両那須白河結城などの大連合軍を率いて下野に侵攻してきた事から、古河方の擁立と北関東覇権を巡りしい争いが開始された。『那須口で戦い』では新当となった宇都宮忠綱が成綱の名代として総大将を任されたが敗北し、連合軍の宇都宮近辺までの追撃を許してしまう。
続いて宇都宮で起きた『の戦い』では成綱自身が総大将として戦い、婚姻同盟を結んでいた下総結城古河をうまく利用して連合軍の撃退に成功する。この戦いは当時の北関東の合戦の中でもかなり規模の大きいものであった。の戦いの結果は古河方擁立を巡る戦いの決め手となり、高基支持に寝返る勢が続出し、高基の方就任は決定的なものとなった(高基の古河方の地位自体は1512年には一応確立している)。足利政氏支持の勢は急速に衰えていく。

の戦いから2年後の1516年に佐竹義舜岩城連合軍が再び侵攻してきて起きた『縄釣の戦い』では、前回佐竹側についていた下那須那須資房を調略によって味方へ引き込むことに成功し、土地的に有利な状態を作り出して大勝した。成綱は更に逃げ佐竹軍を追撃し、常陸まで侵攻。武茂の戦い、依上の戦い、居の戦いで大勝し、佐竹側のや要を多く落とした。

これによって下野へと勢を拡大していた佐竹を大きく削ぐことに成功。成綱による古河方の擁立が実現し、北関東で最も有な勢へと昇り、北関東覇者たる実を周辺勢に示した。政氏を支持していた大名の多くは弱体化し、下野宇都宮較的有利な状態で本格的な乱世へと突入することになる。さらなる躍進も狙える状況であったが、成綱は1516年に病してしまった。

これによって宇都宮忠綱が名実ともに下野宇都宮を率いていくことになるが、まもなく宇都宮落の最大の原因である『大永の内訌』が起こり、成綱が築き上げた一大勢く間に弱体化していくことになる。

補足

宇都宮家中について

宇都宮中は戦国時代以降宇都宮氏が構成していた臣団である。「宿老中」「譜代」「奇衆」などが存在する。その成立は15世紀後半であり、宇都宮成綱の代にほぼ完成した。成綱のの正綱の代には南北朝時代以降独立した行動の多かった有力一門の塩谷、武茂を臣従させることによって中の基盤を作り上げている。それに対して成綱は簗壬生などの有力一門の庶流を直臣にすることや当に対して反抗的な一族(武茂)を粛清し、一門に対するを強めていくことで中を強化していった。また、宇都宮一族に当へ臣従のとして宇都宮惣領の通字である『』の字を与えることによって結束を固めて行った。

具体的な例を挙げると塩谷壬生がそれにあたる。塩谷通字は『』であったが、戦国時代初期に宇都宮に臣従した後は宇都宮成綱・忠綱子の時代にそれぞれの当だった塩谷孝綱・由綱子や間資綱・綱広子のように宇都宮から『』の字を授かっていたことがわかる。壬生の方は宇都宮力一門の横田の庶流であったとされ祖は壬生業だという。通字は『』であったが、成綱が当の頃には壬生綱重・綱房子のように壬生も『』の字を宇都宮から授かっていた。

しかし、成綱がして後に度重なる内訌で宇都宮から離反した一門もおり、それらの者は『』の字を名乗っている者はほぼいないのである。

具体的な例を挙げると壬生塩谷(ただし、塩谷は後に再従する)などである。壬生は綱房の子の綱雄の代までは宇都宮中に属していたが、後に離反することになる。綱雄の子は義雄を名乗っており、名前に『』は含まれていない。塩谷壬生と同時期に離反しているが、その際に塩谷由綱は塩谷義孝に名した可性がある。義孝の子は義綱がおり、宇都宮に再従している。また、壬生綱房が宇都宮を乗っ取っていた時期に元したとされ、壬生綱房・芳賀高照を筆頭とした一族についており、宇都宮惣領と敵対していた。そのために間高広を名乗っており、『』の字は芳賀惣領通字であり、芳賀から授かった可性がある。また、高広の子は綱を名乗っており、それらのことから宇都宮に再従したことがわかる。

宇都宮中は戦国時代に何度も分裂して内訌が起こったが、その多くは芳賀壬生と密接に関わっていた。特に宇都宮忠綱の代に起こった大永の内訌は多大であり、戦国時代後期の宇都宮中が不安定であったのはこの内訌を当が鎮圧できなかったからである。そのために宿老中による専横は宇都宮興綱・尚綱の代と続き、上杉小田原北条の圧が強くなってきた宇都宮広綱の代でも中の分裂は起こっており、中は常に不安を抱えていたのだという。宇都宮中の弱みが露見してしまうことによって小田原北条から有力一門の多功の庶流が調略を受けて離反してしまったりもしている。こうした状況から脱却すべく戦国時代後期には宇都宮広綱宇都宮中の再編を行っている。これにより以前よりは統制がうまくいったが、豊臣秀吉による天下統一まで宇都宮は自立性の高い中を維持したままであった。

ゲームの中の成綱

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける宇都宮成綱一覧

※活躍時期の関係上蒼天録PK以外は登場していない

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀
政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 65 知略 55 政治 58
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治

戦国大戦

明日に向かうための猛きを、今ここに!』

「第五回 戦国大戦×pixiv カードイラストコンテスト」で特別賞の1つに選ばれたため、カード化が決定した。

菅沼久義
Ver3.1で追加された他東の戦国数奇として登場。
イラストレーターカードイラストコンテストで特別賞を受賞したむなぁげ氏。
別名:北関東王。北関東を統べる覇者に相応しい格のイケメン武将である。
コスト2.5・足軽・武8・統率7・制圧・魅持ち。バランスの良いステータスを持ち、更に他東では重な制圧持ちの足軽である。
計略「北関東覇者」は、他東の味方の武が上がる大名采配。更に対の味方のコストが低いほど移動速度が上昇する。武上昇値は低いがクセがあまりなく他東ではかなり扱いやすい計略である。

戦国IXA

2016年4月25日アップデートで追加された。 イラストレーターBISAI氏。
戦国大戦の宇都宮成綱とはまた違ったイケメンショタイラストである。
レア度は極でコストは3。った強さはないが全体的なが高い。
スキルは「錯乱」で戦闘勝利時に敵武将1部隊に追加ダメージを与えるというもの。

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宇都宮成綱

2 ななしのよっしん
2016/04/11(月) 18:39:14 ID: VKfNUgwrHE
蒼天録pkでの見てみたけどかなり過小評価だった
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3 ななしのよっしん
2016/04/23(土) 14:38:02 ID: fgg5P0xJFO
この人がもう少し長生きしてくれたら宇都宮は北条と並び立つ関東の大勢になっていたのに残念
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4 ななしのよっしん
2016/10/07(金) 17:01:41 ID: pkYArjQBbG
場所柄か知名度が非常に低いけど、北条早雲も一置くほどの猛将だっただけあって相当なやり手の名将なんだよなぁ
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5 ななしのよっしん
2016/10/17(月) 23:44:54 ID: fgg5P0xJFO
謀略が得意だったみたいだけど当時の名や佐竹叩き返して勢拡大しているんだから武勇が本領だったのかもね

後継者はアレだけど
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6 ななしのよっしん
2017/06/27(火) 19:27:33 ID: FWRFTaOZ5E
息子も武勇はあったろうが人を統べる術はなかったんだろう
50になる前に死んだのがなんとも
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7 ななしのよっしん
2020/06/26(金) 10:53:51 ID: XbwbJQjru6
高勝を殺して、宇都宮錯乱引き起こした挙句、勝ったのに隠居に追い込まれている時点で、手放しに有能とは思えないな……成綱が下手に長生きしたら、佐竹那須意味に消耗し合って、小山千葉みたいに北条に飲まれていたんじゃないの?
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8 ななしのよっしん
2021/01/14(木) 13:00:57 ID: sCFzu2k90q
成綱が隠居したのは高勝を殺する前であり隠居後も実権は握っていた。宇都宮錯乱芳賀勝利した後の成綱は病気を患っていたから当を忠綱のままにしたわけで隠居に追い込まれているわけではない。
佐竹那須との戦いに関しても綱も尚綱も果敢に攻め込んでいたけど負けていた。成綱なら彼らと違って負けることなく版図を広げていた可性が高く少なくとも成綱在命中は北条に飲み込まれることなく牽制していた可性の方がありえそう。
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9 ななしのよっしん
2021/08/15(日) 16:25:15 ID: RAF50ef+TB
1516年6月26日 縄釣の戦い ➡️ 同年12月1日 成綱
1523年 忠綱 反忠綱牽制の為皆川侵攻、後離反した結城政朝に敗戦
芳賀 皆川が離反し綱擁立忠綱失脚
1527年8月12日 忠綱壬生綱房離反(暗殺説あり)
芳賀 壬生の専横により成綱の功績消滅

芳賀高経、高孝を助命したのは成綱の失策だなぁ、この時代に芳賀高定がいれば……
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10 ななしのよっしん
2021/08/24(火) 20:00:36 ID: RAF50ef+TB
後北条や上杉とどう渡り合ったのかは見て見たかったね
日本史上一番地方に焦点あたるだろう戦国時代の直前に最盛期迎えて後は消化試合とか、悲しくなります
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11 ななしのよっしん
2022/07/08(金) 07:08:37 ID: 7RQyI2EYmu
をも畏れさせた坂東武者の看板宇都宮氏も成綱で実質打ち止め
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