- プロ野球選手一覧 > 小玉明利
小玉明利(こだま あきとし)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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小玉明利 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県尼崎市 |
生年月日 | 1935年6月10日 |
没年月日 | 2019年5月19日 |
身長 体重 |
173cm 70kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手 |
プロ入り | 1953年 |
引退 | 1969年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
県立神崎工業高等学校に進学。2年時に新聞広告で近鉄パールスの入団テストの広告を見かけ受験。このテストで、当時捕手として近鉄に在籍していた根本陸夫に打撃の才能を見いだされ、芥田武夫監督に獲得を進言。結果として合格となり、高校を中退して近鉄に入団することになった。
入団2年目の1954年、サードのレギュラーに抜擢され規定打席にも到達し、打率.264、3本塁打、46打点の成績を残す。
1955年には主に5番打者として起用され、打率.290、68打点と好成績を残す。
1956年には13本塁打を放ち、自身初となる二桁本塁打に到達。
1957年からは4番打者として活躍。1958年には打率.301と高打率をマークしたが、チームぶっちぎりの最下位に沈み、勝率.239、チーム打率.215、チーム内で小玉以外に規定打席に到達した選手は全て打率2割以下と惨憺たる有様であった。また、この年初めてオールスターゲームに出場し、以降9年連続でオールスターゲームに選出されるなど近鉄の顔として活躍した。
1960年、キャリアハイとなる24本塁打を放ち、打率.301、69打点と奮闘。ベストナインにも選出された。翌1961年は打率.294と3割を下回ったが、1962年から1965年にかけて4年連続で打率3割を越え、ベストナインにも4年連続で選出された。
1965年から兼任コーチとなり、1967年にはチーム再建の切り札として選手兼任監督となった。序盤戦こそ単独首位に立った時期もあったが、中盤戦以降は失速し最下位に終わり、名将三原脩を招聘するためにわずか1年で解任された。
その後、チームの若返り方針のためトレードで1968年に阪神タイガースへ移籍。
123安打で2000本安打ということで達成も秒読みと思われていたが、セ・リーグ投手の攻め方の違いに苦戦したか、2シーズンで86安打上積みしたところで現役を引退。2000本安打にあと37安打であった。
引退後は評論家として活動した後、印刷会社で勤務していたという。
人物・エピソード
大砲不在の「ピストル打線」において、孤軍奮闘した近鉄の安打製造機。
通算312失策(歴代9位)、229併殺(歴代11位)と不名誉な数字も目立つが、これは多くの試合に出場した証であり、失策に関しては現在より荒れたグラウンドであったこと、併殺に関しては打球スピードが早すぎることに起因している。
通算成績
打撃成績
通算:16年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1946 | 7479 | 6875 | 789 | 1963 | 130 | 788 | 135 | 33 | 41 | 489 | 30 | 570 | 229 | .286 | .336 |
監督成績
通算:1年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 132 | 59 | 71 | 2 | .454 | Bクラス1回 |
獲得タイトル
関連項目
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