番町政策研究所とは、かつて存在した自由民主党の派閥である。2017年に為公会と合流して志公会を結成したことにより消滅した。
概要
派閥の呼称は松村・三木派→三木派→河本派→旧・河本派→高村派→大島派の順で変遷している。
1955年の保守合同時の日本民主党のうち、旧・改進党系議員を中心に結成された「政策懇談会」がルーツである。
結成時は自民党の中でも少数派な左派思想の持ち主が多かったが、現在では会長の高村正彦をはじめとしてタカ派な傾向が強くなり、かつてのリベラル色は失われている。
結成時から勢力の弱い小規模派閥であったが、三木会長時代は大派閥の対立があると党内のキャスティングボートを握ったり、或いは「三木派が抜けて野党と組む」などの噂で牽制するなど、非常にしたたかな交渉術を持っていた。
また自民党に大きな汚職事件があると、少派閥ゆえに全く汚職に絡んでいない(クリーンな)この派閥にスポットが当たる事があり、「困った時の三木派」と揶揄された事もあった。
「番町」の由来は、事務局が千代田区紀尾井町(番町地域
)にある事に由来する。
歴史
松村・三木派(~1964年) → 三木派(1964~80年)
- 1964年 池田勇人総理の後継総裁について、共同代表の松村謙三と三木武夫の意見が対立。
→松村が派閥脱退。以後、三木が単独で派閥領袖となる。 - 1974~76年 三木武夫内閣。
金脈問題を抱えて田中角栄内閣が退陣。金権政治への批判をかわしつつ福田・大平両派をまとめるために、自民党副総裁の椎名悦三郎が後継総裁に三木を指名して内閣成立した。(「椎名裁定」) - 1976年2月 ロッキード事件発生。 三木は「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」と表明。
→この三木の姿勢に対して党内の反主流派6派による「三木おろし」の倒閣運動が始まるも、三木は衆議院任期満了まで耐え抜いた。 - 1976年12月 第34回衆議院選にて自民党が敗北。初の単独過半数割れ。 三木は責任を取って退陣。
- 1979年 第35回衆議院選にて自民党敗北。 辞任しない大平総理に福田・中曽根・三木派が反発。(「四十日抗争」)
- 1980年 主流派による三木派アレルギー解消のため、派閥を河本敏夫に譲って三木派は一旦解散。
河本派(1980~96年)
- 1980年 河本敏夫が三木派のほとんどを集めて「新政策研究会」を結成。
- 1988年 リクルート事件発生。
- 1989~91年 海部俊樹内閣。
リクルート事件後を受けた宇野宗佑内閣が短命で終了。宇野を指名した竹下派からは後継候補を出せず、さらに他の有力政治家が謹慎中であったため、河本派の海部に白羽の矢が立って内閣成立した。 - 1993年 自民党を離党した議員により新党さきがけ結党。 河本派からも2名離党者が出た。
- 1994年 自民党が日本社会党・新党さきがけと連立政権構想で合意。
→これに反発して海部が離党。同年の年末には新進党を結党して初代党首となった。 - 1995年 派閥名を「番町政策研究所」に改称。
旧・河本派(1996~00年) → 高村派(2000年~12年)
大島派(2012年~)
関連動画
関連項目
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