宇野宗佑(うの そうすけ)とは、日本の政治家である。滋賀県出身。1922年生まれ、1998年没。
概要
滋賀県守山の造り酒屋の家に生まれる。実家は地元の名士。神戸商業大学(現在の神戸大学)在学中に出征し、戦後シベリアに抑留され、帰国後に抑留時代の体験を綴った「ダモイ・トウキョウ」を上梓する。
1951年に滋賀県議会議員に当選。1958年に衆議院議員選挙に出馬するが落選し、1960年の選挙で初当選、国政に進出。自由民主党に所属する。以降、順調に出世し、1974年に防衛庁長官として初入閣して以降、科学技術庁長官、行政管理庁長官、通商産業大臣、外務大臣を歴任。中曽根派のなかで頭角を現す。
竹下内閣の外務大臣として入閣していた1989年、宇野にとっての転機が訪れる。この年に導入された消費税や、前年に発覚したリクルート事件の影響で、竹下内閣の支持率は「消費税並み」と揶揄されるほどに低迷し、ついに竹下登首相は辞意を表明。しかし、元来ポスト竹下と目されていた大物議員はことごとくリクルート事件に関与しており身動きが取れず、ならばと長老系議員に打診したものの、いずれも断られてしまった。
そこに、サミットが近かったこと、リクルート事件への関与が薄かったことなどから、宇野が急遽後継の総理・総裁に擁立された。派閥トップでもなければ、党三役の経験も無い宇野の総理就任は、当時としてはかなり異例であった。宇野は閣僚にリクルート事件に関係の薄い人物を優先的に登用。1989年6月、宇野内閣は「クリーンさ」をアピールしての船出となる....はずであった。
総理就任の3日後、週刊誌「サンデー毎日」に宇野の女性スキャンダルが掲載。宇野が神楽坂の芸者に「自分の愛人になったらこれだけ出す」と指3本(30万の意)出した、といった内容の物だった。当時のマスコミ界には政治家の女性問題は報じないという不文律があったため、当初他社は黙殺していたものの、これがアメリカで報道されるとそれが引用される形で日本でも大々的に報道された。
総理就任翌月の1989年7月に行われた参議院選挙で、自由民主党は僅か36議席しか取れない大敗を喫し、結党以来初めて参議院で単独過半数を割り込んだ。元々がリクルート事件や消費税問題などで勝てる見込みの無い選挙ではあったが、女性票が逃げるからと宇野に応援演説の要請が殆ど来ないなど、より負け幅を広げた格好となった。
選挙大敗を受けて、宇野は退陣を表明。総理在任期間69日という記録は、日本史上4番目の短さ。会見での「明鏡止水の心境であります」は当時流行語となった。
宇野は首相としての評価は前述の経緯からかなり低いものの、人物面では歴史書などを著し、俳句を嗜み、特技はピアノやハーモニカ、絵画という教養のある文化人であり、剣道などの武道にも通じていた。また、大臣としてはこれといった失点も無く、このため、総理にさえなっていなければ、と惜しむ評もある。
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関連項目
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