- プロ野球選手一覧 > 羽生田忠克
羽生田忠克(はにゅうだ ただかつ)とは、元プロ野球選手である。
概要
| OB | |
|---|---|
| 羽生田忠克 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 茨城県新治郡 |
| 生年月日 | 1961年1月5日 |
| 身長 体重 |
178cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投両打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1982年 ドラフト外 |
| 引退 | 1997年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1961年1月5日生まれ。 茨城県新治郡桜村(現・つくば市)出身。
土浦日本大学高等学校に進学。3年時に県大会決勝まで勝ち進んだものの決勝戦で敗退し、甲子園大会には手が届かなかった。
入団から2年間は一軍出場無し。
1985年、笘篠誠治とともにアメリカマイナーリーグへ野球留学。1986年にスイッチヒッターに転向している。
1987年、プロ入り5年目にして一軍初出場。ただ、日本ハムファイターズ戦で9回2死1塁の場面で落球し、すぐさま拾い直して本塁へ剛速球を返球したが、ランナーが生還。試合はその後、サヨナラ負けとなってしまった。同年13試合に出場しているが、全て代走や守備固めによるものであり、打席には立っていない。
1988年、集中力を鍛え直す目的で再びアメリカへ派遣され、鈴木健とともにマイナーリーグでプレー。このとき、現地で強肩の選手に送られるベストアーム賞を受賞している。
1989年、一軍に定着し、守備固めや代走を中心に39試合に出場。打率.258、19犠打を記録したほか、守備ではフェンスに激突しながら打球をキャッチするなど、気迫あふれるプレーを見せた。
以降は笘篠誠治、森博幸、吉竹春樹、大塚光二らとレフトのレギュラーの座を激しく争った。
1993年には44試合に出場して、打率.277、12犠打、1994年には73試合に出場して、打率.293を記録するなど、代走・守備固め中心ながら打撃面でもまずまずの結果を残した。
引退後は、社会人野球クラブの茨城ゴールデンゴールズや岩手21赤べこ野球軍団でコーチや監督を務めた。
人物・エピソード
球界No.1とも呼ばれた強肩を武器に西武黄金時代を影から支えた外野手。フェンスを恐れないガッツ溢れるプレーや、犠打などの小技も武器であった。
その強肩っぷりから「鉄砲肩」と呼ばれた。西武球団で背番号0を初めて背負った選手でもある。
1992年、自主トレーニングとして真冬の北海道で道着一枚で精神修行に取り組んだ結果凍傷を負い春のキャンプに出遅れたことから、同僚たちから名馬の名前をもじって「トウショウボーイ」とネタにされた事がある。
通算成績
打撃成績
| 通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 341 | 546 | 446 | 87 | 115 | 1 | 31 | 25 | 54 | 2 | 41 | 3 | 72 | 7 | .258 | .323 |
関連動画
関連項目
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