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高橋博士(たかはし ひろし)とは、元プロ野球選手である。

概要

1946年3月10日生まれ。宮崎県宮崎市出身。

宮崎商業高等学校へ進学。同期には小川亨が、2学年下には水谷実雄らがいた。3年時には夏の甲子園大会に出場したが、2回戦で堀内恒夫擁する甲府商業に敗れている。甲子園大会終了後には高校日本代表としてハワイ遠征も経験した。

1964年南海ホークス捕手として入団。

初年度は村上雅則らとともにサンフランシスコ・ジャイアンツマイナーチーム野球留学したため一軍出場はし。

2年以降はチーム野村克也が居たことから捕手としての出場機会をなかなか得られず、打撃を活かすべく他のポジションで起用されることが多かった。

1971年ショートレギュラーに定着すると、パ・リーグ最多の5三塁打記録するなど活躍し、打率.265、9本塁打、34打点マークオールスターゲームにも初出場を果たした。

1972年江本孟紀らとのトレードで東映フライヤーズへ移籍。

移籍初年度は開幕からサードレギュラーとして出場を重ねたが、シーズン中盤に故障し出場機会を減らす。翌年からは内野メインユーティリティプレイヤーとして起用され、1974年にはNPBでも一となる1試合で全ポジションを守るというしい記録を達成している。

1975年は正捕手に抜され、123試合に出場。打率.269、12本塁打、40打点マーク。しかし翌年は加藤俊夫に正捕手の座を奪われてしまい出場数を減らしてしまう。

1977年自由契約となりロッテオリオンズへ移籍。

ロッテでは捕手だけでなくファーストとしても起用され、打率.294マーク。翌年以降は土肥健二との併用で捕手として起用され、コンスタント100試合前後に出場。1981年にはチームの前期優勝を決めるサヨナラタイムリーヒットを放っている。

1982年袴田英利の台頭により出場機会を減らし、オフ契約更改で球団の提示を拒否し続け自由契約。その後、自由契約は不当だと撤回をめ連盟に提訴。法廷闘争寸前まで話はこじれ、1973年2月末に再契約でまとまりかけたもののキャンプ終了後であったこともあり『キャンプも不参加で体力的に不安』としてそのまま任意引退となった。

引退後は焼肉店とスナックを経営しているという。

人物・エピソード

捕手だけでなく、内外野どこでも器用に守ることのできたユーティリティプレイヤー。どこでも守れる器用さだけでなく、長打も持ち合わせていた。

1974年に1試合で全ポジションで出場しているが、これは消化試合ダブルヘッダーを盛り上げるため、三原脩球団社長の提案でファンサービスとして行われたものであった。

通算成績

打撃成績

通算:18年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1288 3449 3109 318 790 60 314 37 68 20 217 35 324 82 .254 .310

記録

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