「龐涓(ホウ涓)」(ほう・けん ? ~ 紀元前341年)とは、中国の戦国時代の魏の国に仕えた将軍であり、その才能を恐れて罠に嵌めた「孫臏(孫ピン)」の復讐のターゲットである。
この記事の本来の表記は「龐涓」ですが、「龐」の字が表記できない環境を考慮して、 「ホウ涓」と記述する場合や「龐涓(ホウ涓)」と併記する場合があります。 |
概要
魏の国出身で、斉の国出身の孫臏(孫ピン)と共に「鬼谷子」に兵法を学んだ。
龐涓(ホウ涓)と孫臏(孫ピン)は友人として互いに切磋琢磨したものの、学べば学ぶほどに龐涓(ホウ涓)は孫臏(孫ピン)の才能に恐れを抱いていった。
魏の国戻って「魏恵王(魏罃)」に仕えた龐涓(ホウ涓)は将軍の位まで駆け上がったものの、斉に戻った孫臏(孫ピン)の才能を恐れ、一計を案じた。
将軍まで出世した事を祝ってもらおうと孫臏(孫ピン)を魏に招いた龐涓(ホウ涓)は、孫臏(孫ピン)に魏へ仕官を世話しようと言って滞在を長引かせ、狩りを名目に孫臏(孫ピン)を魏の公室の陵墓がある山へと誘い出し、スパイの罪を着せた。
無実の罪を着せられた孫臏(孫ピン)は両足を切断され、顔には罪人の証である黥(刺青)を施されて龐涓(ホウ涓)の家に軟禁される事になったが、斉の将軍「田忌」が魏を訪れた際に孫臏(孫ピン)は密かに田忌と面会し、田忌の車に隠れて魏を脱出した。
魏が趙の国を攻撃した際に、趙の援軍として現れた将軍の田忌と軍師の孫臏(孫ピン)のコンビが、囲魏救趙の計で趙には向かわずに魏の国都大梁に向かい、精兵を出していた為に急遽趙から逆戻りした魏軍が敗れた「桂陵の戦い」から13年後の紀元前341年。斉軍に敗れた魏に対して攻撃してきた韓の国は、背水の魏と五度戦って五度敗れ、逆に魏に滅ぼされそうになった為に斉に援軍を求めた。
斉は再び田忌と孫臏(孫ピン)のコンビを援軍として送り、斉軍が前回同様魏の国都大梁に向かった為、韓に攻め込んでいた太子の魏申を上将軍とする魏軍は引き返して斉軍を攻撃することにした。この軍に龐涓(ホウ涓)も将軍として参加していた。
魏軍が引き返してきた事を知って退却を始めた斉軍を追った龐涓(ホウ涓)は、斉軍の野営地跡の竃の数が五万だったものが次の日には二万になり、三日目にはさらに減っていた事から、
斉軍は魏軍に恐れをなして逃亡している
として孫臏(孫ピン)もろとも斉軍を壊滅させようと歩兵を残して騎兵のみを率い、昼夜兼行で斉軍を追いかけた。
竃の数は孫臏(孫ピン)がわざと少なくさせて龐涓(ホウ涓)に斉軍を侮るように仕向けたもので、魏軍の進軍速度を逆算した孫臏(孫ピン)は、道の狭い馬陵の地に夕方頃に龐涓(ホウ涓)が現れるだろうと予測していた。
孫臏(孫ピン)の想定通りに馬陵の地に現れた龐涓(ホウ涓)は、暗がりの中で皮を削られて何か記された木を発見した。
灯りをもって近づいた龐涓(ホウ涓)が
龐涓、この樹の下に死せん
と木に記されているのを見たその時!
遂に豎子の名を成せり(小僧に名を成さしてしまったか)
と言って自刎した。こうして友人を罠に嵌めた男は、罠に嵌めた友人の罠に嵌って死んだ。
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