中山俊丈 単語

ナカヤマトシタケ

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中山俊丈(なかやま としたけ)とは、元プロ野球選手である。故人

概要

1935年12月10日生まれ。愛知県名古屋市出身。

商業高等学校に進学。エースとして活躍し、在学3年間で4度甲子園大会に出場。3年時に出場した夏の甲子園大会では全制覇を達成している。

1955年中日ドラゴンズに入団。

入団2年1955年、一軍デビューを果たし、13試合登板して2勝を挙げ、防御率は2.23を記録

1956年シーズン途中から先発投手として起用されるようになり、14勝4敗、防御率1.46(セ・リーグ2位)を記録した他、勝率.778を記録して最高勝率タイトルを獲得した。

入団初年度の1955年リリーフ投手として起用され33試合登板。4勝5敗、防御率2.41を記録している。

1956年先発投手として起用されると、杉下茂大矢根博臣とともに中日先発投手の軸として活躍。同年初めてオールスターゲームにも出場して、20勝11敗、防御率1.62と抜群の安定感を発揮した。

1957年、20勝15敗、防御率1.82と2年連続で20勝を達成。オールスターゲームにも連続出場を果たしている。

1958年開幕投手を任されエースとしての活躍を期待されたが、11勝19敗、防御率3.02と成績を落とした。

1959年防御率は2.72と安定感は発揮したものの、9勝20敗と大きく負け越し。

1960年以降は故障もあり低迷。先発投手から外され、中継ぎでの起用が中心となったが、この間に投球フォームをアンダースロー気味のサイドスローに転向している。

1963年先発投手に戻り41試合登板。9勝5敗、防御率2.48と復活

1964年にも7勝を挙げ、8月読売ジャイアンツ戦ではノーヒットノーランを達成しているが、1965年は0勝に終わり、同年限りで現役を引退

引退後は古巣の中日投手コーチを務め、コーチを務めていない時期には解説者として活動していた。

1999年には台湾プロ野球兄弟エレファンツで監督を務めた。

その後、一時期中京大学コーチを務めていたという。

2016年10月24日、死去。享年80歳。

人物・エピソード

ノビのある直球と縦に大きく割れカーブ武器に活躍した左腕。故障して以降は、腕を下手投げに近いサイドスローに転向し、制球力重視の技巧投手に転身を遂げて復活している。

物静かな人物であったというが、投球面では攻めるピッチングを見せ、ピンチの場面にも強さを見せていた。

川上哲治に、NPB史上初の2000本安打を許した投手でもある。

通算成績

投手成績

通算11年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 396 68 28 83 90 --- --- .480 1605.0 495 1144 534 455 2.55

獲得タイトル・表彰・記録

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