中山俊丈(なかやま としたけ)とは、元プロ野球選手である。故人。
| OB | |
|---|---|
| 中山俊丈 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛知県名古屋市 |
| 生年月日 | 1935年12月10日 |
| 没年月日 | 2016年10月24日 |
| 身長 体重 |
176cm 66kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 左投左打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1955年 |
| 引退 | 1965年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
中京商業高等学校に進学。エースとして活躍し、在学3年間で4度甲子園大会に出場。3年時に出場した夏の甲子園大会では全国制覇を達成している。
入団2年目の1955年、一軍デビューを果たし、13試合に登板して2勝を挙げ、防御率は2.23を記録。
1956年、シーズン途中から先発投手として起用されるようになり、14勝4敗、防御率1.46(セ・リーグ2位)を記録した他、勝率.778を記録して最高勝率のタイトルを獲得した。
入団初年度の1955年、主にリリーフ投手として起用され33試合に登板。4勝5敗、防御率2.41を記録している。
1956年、先発投手として起用されると、杉下茂や大矢根博臣とともに中日の先発投手の軸として活躍。同年初めてオールスターゲームにも出場して、20勝11敗、防御率1.62と抜群の安定感を発揮した。
1957年、20勝15敗、防御率1.82と2年連続で20勝を達成。オールスターゲームにも連続出場を果たしている。
1958年、開幕投手を任されエースとしての活躍を期待されたが、11勝19敗、防御率3.02と成績を落とした。
1959年、防御率は2.72と安定感は発揮したものの、9勝20敗と大きく負け越し。
1960年以降は故障もあり低迷。先発投手から外され、中継ぎでの起用が中心となったが、この間に投球フォームをアンダースロー気味のサイドスローに転向している。
1963年、先発投手に戻り41試合に登板。9勝5敗、防御率2.48と復活。
翌1964年にも7勝を挙げ、8月の読売ジャイアンツ戦ではノーヒットノーランを達成しているが、1965年は0勝に終わり、同年限りで現役を引退。
引退後は古巣の中日で投手コーチを務め、コーチを務めていない時期には解説者として活動していた。
1999年には台湾プロ野球の兄弟エレファンツで監督を務めた。
ノビのある直球と縦に大きく割れるカーブを武器に活躍した左腕。故障して以降は、腕を下手投げに近いサイドスローに転向し、制球力重視の技巧派投手に転身を遂げて復活している。
物静かな人物であったというが、投球面では攻めるピッチングを見せ、ピンチの場面にも強さを見せていた。
川上哲治に、NPB史上初の2000本安打を許した投手でもある。
| 通算11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 396 | 68 | 28 | 83 | 90 | --- | --- | .480 | 1605.0 | 495 | 1144 | 534 | 455 | 2.55 |
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
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