| OB | |
|---|---|
| 山倉和博 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛知県大府市 |
| 生年月日 | 1955年9月2日 |
| 身長 体重 |
178cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手 |
| プロ入り | 1977年ドラフト1位 |
| 引退 | 1990年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
高校は東邦高等学校に進学。2年秋に肩の強さを買われ内野手から捕手にコンバート。3年春の甲子園大会に出場しベスト8まで勝ち進んだが夏の甲子園大会では一回戦で敗退した。
1973年のドラフト会議にて南海ホークスから2位指名を受けた。監督の野村克也から直々に後継者になってくれと頼まれたが、地元中日か在京球団にこだわりのあった山倉は悩んだ末に結局首を縦に振らず入団拒否。その後、一般入試で早稲田大学へ進学した。
早稲田大学では1年時より出場機会を得て、岡田彰布や松本匡史らとともに中心選手として活躍。在学4年で優勝こそ無かったものの、ベストナイン2度選出、盗塁王1回とリーグを代表する捕手として名を馳せ、3年時には大学日本代表にも選出された。
1977年ドラフト会議にて、読売ジャイアンツより1位指名を受け入団。
初年度、新人ながら開幕戦からスタメンマスクを任されると、この試合の第二打席で本塁打を放ち華々しいデビューを飾った。この年は69試合に出場した。
1980年、127試合に出場し初の規定打席に到達。打率.246、17本塁打、52打点と打撃面は好調だったが、守備面ではパスボールが多く、マスコミからバッシングの対象になった。
1981年、打率.205ながら11本塁打をマーク。守備面では投手陣を巧みにリードし、チームのリーグ制覇・日本一に貢献。ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出された。
1982年、2年連続でベストナイン・ゴールデングラブ賞のタイトルを獲得。
1987年、開幕から打撃不振が続いたが5月以降は打ちまくり、終わってみれば打率.273、22本塁打、66打点のキャリアハイの数字を記録し、巨人の捕手としては初となるMVPを受賞。ベストナイン・ゴールデングラブ賞も受賞した。
1988年、走塁中に右足を肉離れに加え背筋痛にも悩まされ成績低迷。以降は1986年に加入した有田修三や1989年に中日からトレードで獲得した中尾孝義らの存在もあり、出場機会が激減。
1990年、控えの捕手ながらもオールスターゲームにファン投票で選出され、山倉は「球宴に胴上げしながら運んでもらったよう。一生、忘れません」と喜びを語った。同年限りで現役を引退。
引退後は巨人や福岡ソフトバンクホークスでコーチを務め、コーチを務めていない時期は解説者・評論家として活動。この他、スポーツアドバイザーとしても活動していた。
慎重かつ投手の性格に合わせた巧みなリードで80年代の巨人投手陣を支えた正捕手にして名脇役。
勝負強い打撃も持ち味であり、確実性にかけるもののの思いもよらぬ場面で長打を放つことから「意外性の男」とも呼ばれた。
パスボールの多さでマスコミから叩かれた際、原因はほぼ投手のサインミスだったのだが反論せず自ら責任を負った。
| 通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1262 | 4066 | 3608 | 339 | 832 | 113 | 426 | 27 | 56 | 28 | 356 | 18 | 620 | 96 | .231 | .301 |
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最終更新:2025/12/16(火) 09:00
最終更新:2025/12/16(火) 09:00
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