常不軽菩薩品は、法華経の品(章)の1つである。
法華経の漢訳の中で最も人気のある『妙法蓮華経』では常不軽菩薩品第二十という。法華経のサンスクリット語原典の『サッダルマ・プンダリーカ』ではサダー・パリブータ(常に軽蔑された男)という。
この品の聴き手は得大勢菩薩(勢至菩薩、大勢至菩薩)である。得大勢菩薩は他の経典において「西方の阿弥陀仏の仏国土において観世音菩薩とともに阿弥陀仏の脇を固めている」とされている。
はるか昔に威音王仏がいた。威音王仏が入滅するとあらたに威音王仏という名前の仏陀が現れたのだが、それが二万億回繰り返されたという。
一番最初の威音王仏が入滅し、威音王仏が広めた教え(正法)が滅び、威音王仏が広めた教えを模倣した教え(像法)が続いている世の中に、うぬぼれの心を持った僧侶たちが大きな勢力を誇っていた。
そんな中で常不軽菩薩が、あらゆる僧侶・在家信者たちに対して、会う人ごとに近づいて「私はあなた方を尊敬しており、決して軽蔑しておりません。あなた方は菩薩の修行をしていて、仏陀になるような方向に進んでいるからです」と話しかけて礼拝した。この常不軽菩薩は経典を音読したり黙読したりすることをするわけでもなく、ただひたすらに、いろんな人に近づいて「私はあなた方を尊敬しており、決して軽蔑しておりません」と話しかけて礼拝することばかり行っていた。
うぬぼれの心を持った僧侶・在家信者たちの中には「常不軽菩薩のような無知の僧侶が我々に『あなた方は菩薩の修行をしていて、仏陀になるような方向に進んでいます』というのは身の程知らずというものだ」と言って憤怒し、中には棒で殴りつける者もいた。
そんな常不軽菩薩が入滅しそうになるとき、威音王仏が説いた法華経を天空から聞き、一気に六根清浄となって健康になり、寿命が延びた。元気になった常不軽菩薩は法華経を説いて神通力を得たので、かつて常不軽菩薩を迫害した僧侶たちも常不軽菩薩を信仰するようになった。
常不軽菩薩はついに寿命が来て入滅したが、転生したあとに数多くの仏陀に仕えて法華経を説いていき、仏陀たちを喜ばせていった。そうした功徳を積み重ねた常不軽菩薩は、ついに仏陀になった。そして、実をいうと、常不軽菩薩は釈迦牟尼仏の過去の姿である。
常不軽菩薩を迫害した僧侶・在家信者たちは、その悪行の報いにより長期間にわたって仏陀に巡り会わず、地獄に落ちて苦しんだ。そのあとに常不軽菩薩によって法華経を布教されて、菩薩になっている。いま釈迦牟尼仏の周りを取り囲んで法華経を聴いている者の中の1,500人がその菩薩である。
常不軽菩薩は、さまざまな僧侶・在家信者たちに対して、会ったら必ず「私はあなた方を尊敬しており、決して軽蔑しておりません。あなた方は菩薩の修行をしていて、仏陀になるような方向に進んでいるからです」と話しかけて礼拝した。
つまり、常不軽菩薩は、誰にでも話しかけて挨拶をする人物であり、誰にでも社交辞令を言う人物であり、極めて社交的な人物だったということができる。
常不軽菩薩は、「あの人は自分よりも低い階級に属しているので挨拶をせずに無視しよう」と高慢に考えることもなく、「あの人は自分よりも高い階級に属しているので挨拶をするのがはばかられる」と卑屈に考えることもなく、身分の上下など考えずに挨拶して回った人である。つまり、階級社会の意識を持たずに無階級社会の意識を持つ人である。
法華経の様々な品において、階級社会を否定して無階級社会を肯定しようという思想が見られる。この常不軽菩薩品も、誰に対しても挨拶をする常不軽菩薩を肯定的に描写しており、無階級社会を肯定する内容となっている。
常不軽菩薩品では、常不軽菩薩から挨拶をされると怒り狂う僧侶・在家信者が登場する。
この僧侶・在家信者というのは、階級社会に属する人物の典型例である。「自分たちは常不軽菩薩よりも高い階級に属している」と確信しており、「自分より低い階級に属する常不軽菩薩に挨拶されるのは極めて不愉快だ」という気分を持っており、そのために常不軽菩薩に対して棒で殴りつけるという迫害をしたのである。
階級社会に住んでいると、「自分よりも低い階級に属する人物から話しかけられるのは、非常に不愉快だ」という気分が心の中を支配するようになる。「自分よりも低い階級に属する人物から話しかけられることが繰り返されると、自分がその低い階級に降格することになる」という意識が芽生え、自分よりも低い階級に属する人物から話しかけられると完全無視するようになる。
階級社会の典型例は、学校におけるスクールカーストであり、一部の体育会系部活動である。スクールカーストが高い人物は、スクールカーストの低い人物に話しかけられると「君と同類と思われたくないから、君は私に話しかけないでくれ」という態度を示す傾向がある。体育会系部活動の中の一部では、年少者が年長者に話しかけるだけで、年長者が「君は自分に対して話しかけてよい身分ではない」と表明し、それを分からせるために凄惨な体罰をすることがある。
無階級社会になると表現の自由が肯定され、階級社会になると表現の自由が制限される。そのことは人類社会のあらゆる場所で見られる一般的な法則である。
常不軽菩薩は無階級社会の肯定者で、誰にでも同じように接している。その彼は「私はあなた方を尊敬しており、決して軽蔑しておりません。あなた方は菩薩の修行をしていて、仏陀になるような方向に進んでいるからです」という表現を繰り返している。まさに「無階級社会になると表現の自由が肯定される」を体現している人物である。
法華経のサンスクリット語原典の『サッダルマ・プンダリーカ』においてサダー・パリブータ(常に軽蔑された男)という菩薩が登場する。
この菩薩は、竺法護が翻訳した『正法華経』において常被軽慢菩薩(常に軽蔑された菩薩)という名前を与えられ、鳩摩羅什が翻訳した『妙法蓮華経』において常不軽菩薩(常に軽蔑しなかった菩薩)という名前を与えられた。
岩本裕は「本来、受動的な意味の語を能動的に解釈した点に、鳩摩羅什の教学的な立場があると理解すべきであろう」と述べており[1]、「鳩摩羅什が教学的な思想を持っていて、その思想に従って、あえて『常不軽菩薩』と翻訳した」との見解を示している。
ちなみにサダー・パリブータは、常に軽蔑されつつ「私はあなた方を軽蔑しません」という態度を示し続けているので、常被軽慢菩薩と常不軽菩薩の両方の名前が当てはまっている。
常不軽菩薩品は、日蓮によって折伏逆化の根拠となったことで有名である。
「布教者が、悪人に近づいていき、あえて悪人に罵倒される。そうなると悪人は、布教者を罵倒したことによって、法華経信奉者と仏縁を結ぶことになり、成仏の原因を作ることになる」という考え方を日蓮教団において折伏逆化という[2]。
日蓮が常不軽菩薩を常に模範としていたことは有名である[3]。
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