津野浩(つの ひろし)とは、ゴルファー・元プロ野球選手である。
OB | |
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津野浩 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県高岡郡 |
生年月日 | 1965年8月6日 |
身長 体重 |
186cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト3位 |
引退 | 1997年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高知商業高等学校校に進学。在学中3度甲子園大会に出場。3年時にはエースとなり、夏の甲子園大会では3回戦で箕島高校戦では吉井理人から満塁本塁打を放つなど打撃面でも活躍。準々決勝では清原和博・桑田真澄擁するPL学園相手に接戦を演じたが9-10で敗退している。
1983年ドラフト会議にて、日本ハムファイターズから3位指名を受け入団。同期には白井一幸がいた。
入団初年度の1984年、高卒ルーキーながら18試合に登板(うち11試合で先発)し、4勝8敗、防御率6.64という成績を残す。世間では同じく高卒ルーキーながら活躍した渡辺久信や加藤伸一とともに「19歳トリオ」として話題となった。
1985年、「プロで困ったら使おう」と、昨年封印していたフォークボールを解禁。開幕投手を任されるなどローテーションの中心として登板を重ね、7勝10敗、防御率4.42と成績を向上させ、オールスターゲームにも初出場を果たした。
1986年、2年連続で開幕投手として登板。新たに大石清コーチから伝授されたスプリットを武器に、10勝10敗という成績を残し、初めて二桁勝利に到達。
1987年、3年連続で開幕投手を任されたが、8勝9敗、防御率はパ・リーグワーストの5.10と今一つな成績に終わった。
1988年、開幕から安定した投球を続け、西崎幸広とともに先発ローションの軸として活躍。8勝13敗と負け越しはしたが、パ・リーグ7位の防御率2.92と大きく飛躍することができた。
1989年、防御率は5.50と悪化してしまったが、自己最多の11勝を挙げた。
1990年、肩を故障し、0勝6敗、防御率6.75と低迷。以降、この怪我の影響に苦しむことになる。
1991年、2勝1敗、防御率6.32と復調できず、オフに金石昭人とのトレードで広島東洋カープへ移籍。
ただ、広島ではわずか1試合の登板に終わり、同年オフに自由契約となる。その後、入団テストを経て中日ドラゴンズに入団。
中日では初年度に中継ぎ投手や先発ローテーションの谷間の先発投手として27試合に登板し、3勝3敗、防御率3.32と復調したかと思われたが、翌1994年は故障の影響によりスランプに陥り、一軍登板無しに終わる。シーズン後、金銭トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。
ロッテでは2年目の1996年に12試合に登板したが、防御率6.55と今一つな成績に終わり、翌1997年オフに戦力外通告を受けた。その後、阪神タイガースの入団テストを受けたが不合格に終わり、現役を引退した。
引退後、横浜のゴルフクラブでプロを目指す研修生兼キャディ・雑用として活動し、10年ほどゴルフのツアープロを目指したが、プロとの差を感じ断念。その過程でティーチングプロとしての資格を取得していたことからティーチングプロに転向。現在もゴルフ指導者として活動している。
スプリットを武器に打たせて取る投球で日本ハム投手陣を支えた右腕。
低迷期の日本ハムということでシーズン成績で勝ち越したシーズンは無く、被本塁打がやや多い傾向があった。
津野の妻は元チームメイトの西崎幸広の妻と姉妹であり、津野と西崎は義理の兄弟という関係である。
現在はゴルフ界で活躍しているが、入団2年目に先輩に誘われ合宿所近くにあったゴルフのショートコースでラウンドしたことがきっかけでゴルフにハマったという。
通算:13年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 231 | 31 | 7 | 53 | 71 | 0 | --- | .427 | 1020.2 | 490 | 554 | 589 | 523 | 4.61 |
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最終更新:2024/05/01(水) 03:00
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