OB | |
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淡口憲治 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
生年月日 | 1952年4月5日 |
身長 体重 |
173cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト3位 |
引退 | 1989年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
三田学園高等学校に進学。1学年上には山本功児が、1学年下には羽田耕一がいた。外野手としてプレーし、2、3年時に春の甲子園大会に2大会連続出場。どちらの年もベスト8で敗退している。
1970年、ドラフト会議にて読売ジャイアンツから3位指名を受け入団。
1974年、一軍に定着。63試合に出場して打率.235、3本塁打、8打点をマークした。
1975年、外野のレギュラーに定着し、114試合に出場して打率.293、12本塁打、42打点をマーク。
1976年、張本勲が加入したことでスタメン出場の機会が減少したが、優勝の掛かった試合で満塁本塁打を放つなど要所で活躍。98試合に出場し、打率.298、10本塁打、39打点をマーク。
1977年、1978年はポジションを争う柳田真宏が好調だったこともあり出場機会が限られたが、それでも代打などで活躍を見せた。
1980年、張本と柳田が退団したことで出場機会が増加。同年打率.294、14本塁打をマークすると、同年から1983年にかけて4年連続で二桁本塁打を記録。1981年には規定打席未到達ながら打率.313をマーク。1983年にはプロ入り13年目にして初めて規定打席に到達し、打率.302をマークしている。
1984年以降は駒田徳広や吉村禎章らの台頭もあり、スタメンでの出場が減り、代打での出場が増えていく。
1985年オフ、有田修三とのトレードで近鉄バファローズへトレード移籍。なおこのトレードは元々定岡正二がトレード要員であったが、定岡が「トレードするくらいならユニフォームを脱ぐ」とトレードを拒否し、そのまま現役を引退したため淡口に変更されたという経緯がある。淡口自身は地元が近くなるということで承諾している。
移籍初年度の1986年、外野のレギュラーとして活躍し首位打者争いに絡む活躍を見せたが規定打席には到達せず、打率.297、8本塁打、38打点をマーク。1987年以降はスタメンだけでなく代打として起用される場面も増えていった。1989年、シーズン打率.229と振るわなかったが、日本シリーズで古巣巨人の桑田真澄から同点タイムリーを放つなど活躍を見せた後、現役を引退した。
引退後、古巣の巨人や北海道日本ハムファイターズ、東京ヤクルトスワローズなどで打撃コーチを務め、松井秀喜・清水隆行・稲葉篤紀・畠山和洋らを育成した。
鋭いスイングと驚異的打球速度を持ち味としていた事から、当時の最新鋭旅客機の名前をもじり「コンコルド打法」と呼ばれた外野手。
長打力や代打での勝負強さが光ったが、左投手を苦手としていたことから規定打席に到達したシーズンは1度のみと少ない。ただ、本人は「左投手はそこまで苦手じゃなかった」と語るように、「左打者は左投手に弱い」という先入観により起用される機会が限定された、というのが真相のようである。
打席でお尻を2、3度クイッと動かす独特のルーティンは、当時の子供達によく真似されていたという。
通算:19年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1639 | 4331 | 3915 | 487 | 1076 | 118 | 474 | 58 | 27 | 29 | 331 | 29 | 544 | 54 | .275 | .334 |
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最終更新:2025/02/16(日) 20:00
最終更新:2025/02/16(日) 20:00
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