第二メルボルン 単語

ダイニメルボルン

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第二メルボルンとは、1902年生まれの日本競走馬、繫殖である。鹿毛

生産者:不明、調教師:神惣策、馬主:コットン(佐久間太郎)→アレキサンダー→スナイプ(平沼太郎)→木村次郎

な勝ち
1907年:帝室御賞典(横浜)

※当記事では馬齢は旧年齢で表記します。

概要

第二メルボルンは1906年オーストラリアでの不正行為の余波で安価にて輸入されたという血統不明のサラで抽籤により650円コットン馬主名を使っていた佐久間太郎の所有馬となった。当初の名はイスズであったが、ある日の宴席で東京競馬クラブ評議員の平沼から「あなたのイスズは、いくら出したら手放しますか」と持ち掛けられたさい、酔っていた佐久間は「まず、一万円ぐらいなら良いでしょう」と冗談を言ったところ即座に「では、一万円で売って頂きましょう」と返され、そのまま押し切られてしまった。アレキサンダー氏の所有となったイスズはかつての持ちメルボルン号にあやかり第二メルボルンと改名され平沼の所有馬となった。このアレキサンダー氏は平沼と同一人物である。

第二メルボルンがデビューした1906年池上競馬場が開場、日本人初の馬券発売開始により馬券黙許時代と呼ばれる競馬ブームが到来。1907年鑑では西の横綱ヒタチに対して東の横綱と並び称されている。

当時は斤量ごとにレコードタイムを設定したためにわかりづらいが生涯で10回に及ぶレコード勝ちを収めた快速

5歳〈イスズ始動、馬券黙許時代の始まり〉

1906年11月2日横浜濠州抽籤新デビューしたイスズはここを楽勝。そのまま4連勝で優勝戦を制した。11月24日には東京池上競馬場濠州抽籤新に出走するも登録していた33頭が回避したため、単走レースとなり2分1660/100タイムで己との戦い?に勝利し、12月2日優勝戦を制して6戦6勝で年内を終えた。

6歳〈第二メルボルンに改名、競馬場が生えてくる時代〉

1907年馬主アレキサンダー氏になり、5月3日横浜コロニヤル賞典より始動するも2着に敗れるが(22連勝記録と消えたのだ)、翌日の帝室御賞典レコード勝ちして名実ともに1流仲間入りを果たす。10日のコスモリタハンデを制し、11日の優勝戦に挑むもチハヤの3着に敗れる。25日からは池上で6戦して、優勝戦でヒタチを破り6戦全勝。

馬主がスナイプ氏に変わって、横浜に戻り10月25日コロニア物でヒタチを破った結果、翌日の横浜ダービーが回避続出で単走となり「騎手然として上に打ちまたがり、まずはこのの走りっぷりをご覧なせえと馬場を1周する。観客はもうただやんやの采をおくるのみ」と報じられた。レースを見せろとヤジ飛ばしている観客も多かったらしいが気にしない。そこから更に2勝して、それから池上で4勝。これで年内を終えたと思いきや11月24日川崎で1戦してペネロピーの2着に敗れた。(現役中に第二メルボルンとメルボルン2世の名を使い分けていたらしい)。結局この年は19戦して16勝だった。

7歳〈馬券発売禁止、馬券黙許時代の終焉〉

1908年5月8日横浜コロニヤルプレート(翻訳の仕方でレース名がコロコロ変わる)でレデーヴヲーユーに3馬身で2着に敗れるが、9日の横浜ダービーでペネロピーに辱を果たし優勝。次走のコスモリタプレート勝利するが優勝戦で再びレデーヴヲーユーに1馬身差で敗北年齢もあるが斤量もきつくなってきていた。池上では3戦して初戦は勝利するが、2戦ペガサスに2馬身差の2着でレコード勝ちを許してしまう。ペガサス横浜のサミエル商会支配人デビスが第二メルボルン打倒のために個人でオーストラリアから輸入したである。さぞかし高かっただろう。3戦優勝戦でクモペガサスにやられて3着。

10月30日の初戦こそ勝利するも11月2日横浜ダービーはとうとう4着に敗れてしまう。6日のブリベリー物では執念のレコード勝ちをするも7日の優勝戦でトニックの3着。この年は11戦5勝だった。

8歳〈閑古鳥、競馬暗黒時代の始まり〉

1909年5月7日の初戦を再びペネロピーの2着となり、8日もトニックの4着と振るわなかったが21日の3戦は見事勝利してを終える。

10月29日の初戦を4着に敗れ、神惣策から東原玉造に乗り替わった30日は昨年から煮え湯を飲まされ続けたトニックを破って1着。しかし、11月5日の次戦は逆転されトニックの2着。20日からの池上では神惣策に手綱が戻りまずは1着。しかし、次走で前走で破ったアサギリの2着に敗れ、優勝戦もアバンガードの2着に終わり、この年を9戦3勝で終えた。

9歳から10歳、引退からその後〈池上競馬場閉鎖、4団体目黒に集約〉

1910年は全休。

1911年馬主木村次郎に変わり、目黒競馬場11月4日鈴木太郎上に各抽籤濠州を1戦して着外に終わって引退北海道大塚助吉牧場メルボルン2世の名で繁殖入りした。

オーニギシ(オーミギシの誤植と思われる)というの他に1918年連合二哩プリンセスレイアモーアを出して繫殖としても成功を収め、1918年死亡した。

通算成績46戦30勝[30-9-3-4]

競馬人気の盛衰という時代を徴する名であった。

主な産駒

プリンセスレイアモーア(1914年生、鹿毛な勝ち1918年優勝内国産馬連合競走)

第二メルボルンの生年について

サイトや書籍を確認しただけでも1901説、1902年説、1904年説があったが1902年説を採用した。匹血統登録書第4巻141ページの第四メルボルン2世ことオーミギシの血統表 メルボルン2世 1902と明記されている。輸入された時に6歳だった記録もあるようだがオーストラリア8月1日馬齢を加算するので日本に来て1歳若返った可性がある。

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