細川晴国 単語

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細川晴国(ほそかわ・はるくに 1516 1536)とは、戦国時代の武将である。別名・総。

概要

細川氏のうち野州の当であり、細川高国後の彼の閥をまとめた残党の一の当となった。しかし細川氏綱らとは連携できず、そのまま討伐されてしまった。

生涯

細川野州細川政春子供として生まれた。細川高国。なお、かつて『長府細川系図』でのみ甥とされてきたのが傍だけで後世にということに勝手にされた細川政は実在せず、僧籍にいた東漸寺と呼ばれる兄弟がほかにいた。

『長府細川系図』によると享年は43歳であるとのことから、生年は明応3年(1494年)。しかし、『再』によって永正15年(1518年)に死んだことがわかる細川政春年すら載せていない(しかし、はこれも一つの間に記されたものではなく、ある時期に段階的に成立したとするため、さらに議論を進めている。)この『長府細川系図』がどこまで信用できるかという問題がある。

ここで岡田謙一が『後法成寺関白記』の永正13年(1516年)8月17日の条に房州督、つまり細川政春の子息が誕生したことを確認し、ここで生まれたことが確定した。ちなみに、細川政春はその甥である備中守護、細川九朗二郎の永正12年(1515年)の自害によって、この当時は安房守を称した房州となっていたのである。つまり、『長府細川系図』の記述はもはや学術的には越えられたといってもよい。同じ論文集でがさらに『長府細川系図』の史料批判を進め、典厩として野州より上位にあったと自負していた細川氏綱が細川晴国死後の野州である細川通董らと接触したことがして遜色されたものとしている。

彼が誕生したころすでに細川高国が本宗である督を継いでいたため、彼の誕生は野州の当の誕生と同意味であった。ところが、細川高国の子息・細川は大永5年(1525年)に督を継いで間もなく亡くなり、翌大永6年(1526年)には細川尹賢の讒言で内衆の香西元盛の殺と、彼の兄弟である波多野元清柳本賢治の離反、ついに大永7年(1527年)には細川晴元への敗北によって近江への落、とまぐるしく情勢が変化する。

こんな時期にこんな重要人物である細川晴国の姿が全く見えないのである。しかし、よく見てみると『実隆公記』には大永4年(1524年)の細川政春の七回忌を元前である細川虎増が執り行っていたと伝える。『後法成寺関白記』の大永6年(1526年)12月27日の条に細川二郎八郎の元が記載されており、この二人が細川氏綱、細川晴国であることが確定した。なお、別に細川高国は細川晴国を生前養子にしたわけではなく、細川氏綱は典厩を、細川晴国は野州を継ぐ、以上のことを明確にしなかったがためにややこしいこととなる。

以後、細川高国の死の前後もまったくよくわからなくなるが、高野養寺文書』において、ちょうど享3年(1530年)柳本賢治後の細川高国の一が東山付近に現れだした頃に、享4年(1531年)3月26日という彼が文中に登場する細川高国の書状が存在する。

5年(1532年)には17歳ながらも幕府法をクリアして彼の押が書かれた禁制の文書が発給され、このころからようやく活動していくのであった。

この後、細川晴国は『小文書』や『二水記』等よって享3年(1530年)ころから丹波に進出していくことがわかる。従来は勢いに任せて挙兵したとされてきたが、勝機を見出して入念に準備していたのだ。いったんは若狭に逃れたようだが、再度丹波に戻ったようだ。細川晴国の配下としては、玄番頭細川国慶、丹波守護代の内藤国貞国衆の寄となっていた波々伯部盛や野田弾正忠、ここに後に波多野秀忠が合流する。奉行人としては赤木中沢秀剛のもとで体制を構築していった。

やがて細川晴元側の内紛で丹波の勢力が細川高国側についていくと、すでに入していた細川晴国は、山名祐豊らの力を借りて勢力を整えていった。かくして法宗と組んだ細川晴元に対して本願寺と結ぶ。

そして、文2年(1533年)に細川晴元摂津本願寺を囲むと、中に進出し、細川晴元方の薬師長や平岡丹波守を討ち取っていく。ところが、細川晴元は本願寺と和し、これが致命的となってしまう。三好連盛と三好長逸の攻撃で先鋒の瓦氏らが和し、許の内藤国貞細川晴元側につくなど状況は不利に働くが、木沢長政の存在など一枚岩でなかった細川晴元側を利用して丹波を再度制圧していく。

細川晴国は態勢を整え、畠山稙長らと結んで再度進行するが、本願寺が人質を提出するレベル細川晴元重い和議を結び、細川晴国は細川総と改名してアピールするも、内藤国貞はすでに全に寝返り、それを埋め合わせようと自立化を進めようとした細川晴国に波多野秀忠があえて勢力伸長を賭けるも、見限ると波多野秀忠はあっけなく細川晴元方に戻ってしまった。結局動揺した三宅寝返り自害に追い込まれた。なお、この背後には混乱を収拾しようとして彼の始末をめた本願寺の意向があったとも。

岡田謙一は彼の死を史料がないのであくまでも傍と断りつつも、細川高国の生前から続く細川氏綱との後継者としての争いが一因ではないかと述べている。は典厩と野州格が両者に轢を持っていたのではないかとされに踏み込んでいる。しかし、畿内の混乱はこれを利用しようとして生き残りを図っていく中小勢力の動向に左右され、もはや細川氏の督だけの問題ではなかったのである。

書状

早稲田大学古典籍総合データベースから細川晴国の書状exitが読める。

文元年(1532年)5月12日野田弾正忠にあてたもので、萩野文書14号と全く同じものである。

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