OB | |
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西田真二 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1960年8月3日 |
身長 体重 |
174cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1982年ドラフト1位 |
引退 | 1995年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1960年8月3日生まれ。和歌山県和歌山市出身。小学3年時から本格的に野球を始める。
中学時代にPL学園中学に転校し、高校はエスカレーター式でPL学園高等学校に。同期には木戸克彦と金石昭人がいた。エース兼中軸打者として活躍し、浪商業の牛島和彦と激しくしのぎを削り「右の牛島、左の西田」と称された。1978年夏の甲子園大会では劇的な逆転勝利の連続で「逆転のPL」と呼ばれたチームのエースとして全国制覇に大きく貢献している。
大学は木戸とともに法政大学へ進学。外野手に転向し、在学4年間で3度のリーグ制覇を経験、5度のベストナインに選出されている。また、大学野球日本代表にも選出されている。
1982年ドラフト会議にて、広島東洋カープからドラフト1位指名を受け入団。
1983年、黄金時代を迎え層が分厚い外野陣において、守備面にやや不安のあった西田はなかなかスタメン出場の機会を得られなかったが、プロ入り初安打を江川卓から記録すると、以降は代打の切り札として一軍に定着。59試合に出場し、打率.235、13打点、4本塁打をマーク。放った本塁打は全て代打で記録したものであった。
以降も代打中心で起用され、1984年の開幕戦では高校時代のライバル牛島和彦からサヨナラ安打を記録。1985年には満塁の場面で押し出し四球を4度記録している。
1989年、この年監督に就任した山本浩二監督から「代打じゃもったいない」とスタメンでの起用も増え、規定打席未到達ながら打率.355、9本塁打、27打点をマークした。
1990年、前年同様スタメンと代打双方で起用され、打率.349、13本塁打、36打点とキャリア最多の本塁打を放った。
1991年、勝負強さを買われ6月頃から4番打者として起用される機会も増え、終盤戦こそ失速したものの優勝を決めた試合で決勝タイムリーを放ち、6年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。打率.289、7本塁打、51打点の成績を残した。
1992年以降は成績が低迷し、金本知憲や緒方孝市、町田公二郎らの台頭もあり出場機会が減少。
引退後、解説者・評論家としての活動を経て1999年、古巣広島のコーチに就任。2001年までコーチとして在籍し、新人であった新井貴浩を辛抱強く育て上げた。
広島退団後は独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツ、香川オリーブガイナーズで監督を務め、又吉克樹など20人以上の選手をプロ野球の世界に送り込んでいる。この他社会人野球の広島レッドフェニックスでも指揮をとった。
勝負強さと天才的な打撃センスを武器に活躍した広島の左の代打の切り札。割り切りが得意としていたが、集中力が長く続かないという弱点があった。
練習嫌いであり、当時を知る関係者は口を揃えて「練習していたら間違いなく大打者になっていた」と語られる。
前田智徳が尊敬する人物として西田の名前を挙げ、師匠と呼び慕っていた。
フラフラと遊び歩くことも多かったことから、映画「男はつらいよ」の主人公にかけた『寅さん』が愛称であった。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 777 | 1627 | 1412 | 137 | 402 | 44 | 226 | 21 | 5 | 15 | 185 | 10 | 293 | 26 | .285 | .368 |
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最終更新:2024/11/24(日) 20:00
最終更新:2024/11/24(日) 20:00
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