| OB | |
|---|---|
| 銚子利夫 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 茨城県神栖市 |
| 生年月日 | 1961年8月24日 |
| 身長 体重 |
179cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
| 引退 | 1993年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
高校は自身の名字と同じ銚子高等学校へ進学。2年時からは投手と内野手兼任でプレーし、3年夏にはチームを初の甲子園大会出場へと導いた(結果は初戦敗退)。その後、秋のドラフト会議で近鉄バファローズから4位指名を受けたが、入団を拒否して進学。
法政大学へ進学。同期には小早川毅彦が、1学年上には木戸克彦や西田真二、2学年上には川端順や池田親興などがいた。大学では内野手に専念し、在学4年間で4度のリーグ制覇を経験。3年春には首位打者を獲得し、ベストナインにも3度選ばれた他、3・4年時には2年連続で大学日本代表に選出されるなど、プロからも高い評価を得るようになった。
1983年ドラフト会議にて、横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団。
初年度から一軍で出場機会を得たが、打撃面で苦戦し、2年目の1985年はほぼ守備固めでの起用であった。
1988年、開幕戦からサードで起用されると、そのまま2番・サードとしてレギュラーに定着。初めて規定打席に到達し、打率.271と課題であった打撃面を克服した他、30犠打を記録して打線のつなぎ役として活躍。守備面でも失策数わずか3と堅守を誇ったが、ゴールデングラブ賞は原辰徳が選出されている。
1989年、打率.281と向上させ、自己最多となる2本塁打を放った。
1990年以降は出場機会を失う。
1992年、長内孝とのトレードで広島東洋カープへ移籍。ただ、広島では2シーズンで24試合の出場にとどまり、活躍できなかった。
引退後は横浜に戻り、コーチやフロント、スカウトなどを務めた。
2009年に退団した後は、自動車販売店で勤務しながら、JR東日本、法政大学でコーチを務めた。
現在は自動車販売店で勤務しながら、社会人野球の福山ローズファイターズのGMを務めている。
堅守と小技で渋く活躍した内野手。個性の強い大洋のメンバーの中で、玄人好みの味のある活躍を見せていた。
1990年にレギュラー落ちを経験しているが、きっかけはオープン戦で風邪を引いたという些細なものであり、『自己管理がなっていない』という理由であった。
高校時代は高名と名字が同じであったことから、『銚子高校の銚子くん』という覚えやすいフレーズで呼ばれ、話題となった。
| 通算:9年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 433 | 1225 | 1088 | 113 | 278 | 3 | 60 | 16 | 67 | 1 | 59 | 10 | 165 | 20 | .256 | .300 |
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最終更新:2025/12/05(金) 16:00
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