門前眞佐人 単語

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門前眞佐人(もんぜん まさと)とは、元プロ野球選手監督である。故人。

概要

1917年5月15日生まれ。広島県三次市出身。

旧制広陵中学校へ進学。1学年下には白石勝巳がいた。チームの4番打者として活躍し、1935年春の甲子園大会では準優勝を達成。ただ、同地区には藤村富美男擁する中学校がいた事から、県予選決勝で何度も甲子園大会出場を阻まれたという。

1935年10月22日12月に創設を控えた大阪タイガース契約一号選手として同球団と契約。同球団の創設メンバーとして名を連ねた。

1937年、正捕手が応召されチームを離脱したことから正捕手の座を得て、シーズンにはリーグ最多の15二塁打を放ち、打率.217、2本塁打、32打点記録

1938年ハワイ出身の日系二世選手である田中義雄の入団もあり、田中との併用起用となり出場機会が減少。

1939年、応召を受け退団。満州へと渡り任務にあたっていたが、を負傷して1942年に除隊。

除隊後は阪神に復帰し、正捕手として戦前最後のリーグ制覇に貢献している。

1945年、故郷の広島に戻り、ノンプロチーム広島園でプレー

1947年リーグに参加し、同リーグの活動終了までの間、結城ブレーブス大塚アスレチックスプレーしていた。

1948年大塚を吸収合併した金星スターズに入団。翌1949年には古巣の大阪タイガースへ移籍したが、土井垣武の存在もあり出場機会は限られた。

1950年大洋ホエールズへ移籍。正捕手として起用されると、打撃面では6月中日ドラゴンズ戦で日本プロ野球史上3人となるサイクル安打を達成するなど、打率.280、25本塁打110打点と打ちまくり、守備面では、NPB記録となる1試合で5度の盗塁阻止記録するなど強肩っぷりを発揮し攻守で躍動した。

1952年、ノンプロ時代からの付き合いである石本秀一からの誘いを受け、広島カープへ移籍。広島でも正捕手として活躍し、1953年には12本塁打を放っている。

1956年、選手兼助監督としてプレー。同年72試合に出場したが、同年限りで現役を引退

引退後、1958年広島ヘッドコーチに就任し、二軍監督を経て、1961年に一軍監督に就任。ただ、2季連続で5位に沈み、1962年限りで広島を退団している。

以降は解説者評論家として活動。

1984年2月22日心筋梗塞のため死去。享年66歳。

人物・エピソード

強肩強打を武器に、日本プロ野球創期から戦後にかけて活躍した名捕手。特に肩の強さに自信を持ち、投手に返球するように見せかけて、投手の方に顔を向けたまま一塁走者を牽制で刺しにいくプレー名人芸と言われていたという。

捕手投手に好かれる者でないといけない、投手が投げやすいように心理的にもリードしていくタイプでなければならない」という考えを捕手の信条としていた。

選手時代は非常に怒りっぽく、不甲斐ない投球をした投手ミスをした野手をしく叱責する姿から、「地震・雷・事・門前」と呼ばれ恐れられた。導者になってからは一転して穏やかな性格となり、選手たちを萎縮させないよう心がけていたようである。

通算成績

打撃成績

通算:16年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1203 4308 3761 386 892 80 543 50 39 18 475 14 446 67 .237 .324

監督成績

通算:2年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 264 114 141 9 .447 Bクラス2回

獲得タイトル・記録

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