土井垣武(どいがき たけし)とは、元プロ野球選手・監督のことである。故人。
| OB | |
|---|---|
| 土井垣武 | |
| 基本情報 | |
| 出身地 | 鳥取県米子市 |
| 生年月日 | 1921年7月21日 |
| 没年月日 | 1999年1月25日 |
| 身長 体重 |
164cm 64kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手、内野手、外野手 |
| プロ入り | 1940年 |
| 引退 | 1957年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1916年6月28日生まれ。鳥取県米子市出身。駄菓子屋を営む家庭に生まれ、幼少期より野球に親しむ。
鳥取県立米子中学校に進学し、最高学年時には甲子園大会に出場。
卒業後は大学へ進学するつもりだったが、野球部部長の薦めもあり、大阪タイガースに入団。
田中義雄や門前眞佐人らの壁は高く、捕手としてだけではなく内野手として出場することが多かった。
復帰後は1946年にリーグ3位の打率.325と打撃が開花し、ダイナマイト打線と呼ばれたタイガース打線の中軸の一角を担う。また、守備面でも若林忠志や御園生崇男らを巧みにリード、1947年にベストナインに初選出。
1949年、毎日オリオンズへ移籍。時を同じくしてタイガースの選手が大量に毎日に引き抜きにあい、カネ目当てで移籍したと土井垣自身もファンから野次られることも多かった。
移籍初年度の1950年、打率.322、15本塁打の好成績でチームの日本シリーズ制覇に貢献、日本一が決まった瞬間には人目もはばからず号泣したと言われている。
1953年、打撃不振を理由にチームから引退を勧告されるも現役にこだわり東映フライヤーズへ移籍。
1956年阪急ブレーブスへ移籍したが打棒に衰えが見られ、1958年シーズン限りで現役を引退。
引退後はPL教団でコーチを務めつつ[1]野球評論家として活動した後、古巣阪神でコーチを務めた。
その後は結婚すると同時に妻の家に養子縁組し、西陣織を扱う「若松」の3代目社長を務めた。
高い打撃能力と肩の強さ、頭脳的なリードから「和製ヨギ・ベラ」の異名を持つ。右打ちが上手く、非常に勝負強い打撃で藤村富美男、別当薫らとダイナマイト打線の中軸を担った。
またどんな相手だろうと怯むどころか睨みつけて向かっていく気の強さから「闘将」の愛称でも親しまれた。
| 通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1413 | 5315 | 4789 | 551 | 1351 | 79 | 654 | 87 | 23 | 8 | 482 | 19 | 298 | 67 | .282 | .350 |
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最終更新:2025/12/06(土) 15:00
最終更新:2025/12/06(土) 15:00
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