高沢秀昭(たかざわ ひであき)とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 高沢秀昭 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 北海道沙流郡 |
| 生年月日 | 1958年9月10日 |
| 身長 体重 |
178cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手、内野手 |
| プロ入り | 1979年ドラフト2位 |
| 引退 | 1992年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
苫小牧工業高等学校に進学。3年夏には道大会ベスト4まで勝ち進んだものの敗退し、甲子園大会出場は無し。その後王子製紙苫小牧に入社し、野球センスの高さを評価される。
1979年ドラフト会議にて、ロッテオリオンズからドラフト2位指名を受け入団。
内野手として入団し、ショートとしてプレーしていたが、故障もあり1981年に外野手に転向。
1983年、シーズン後半から外野のレギュラーに定着し、規定打席には届かなかったが、打率.303、6本塁打、24打点をマークした。
1984年、安定した打撃で5月には1試合4二塁打を記録するなど活躍したが、8月の西武ライオンズ戦で外野フェンスの角に両膝をぶつけ、両膝の皿を粉砕骨折し戦線離脱。それでも規定打席には到達し、打率.317、11本塁打、47打点、47打点、11盗塁を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞に初選出された。
1987年、シーズン序盤は1番打者を、後半戦は4番打者を任され、打率.292、11本塁打、50打点、27盗塁をマーク。守備面での貢献が評価され、2度目のゴールデングラブ賞を獲得。また、オールスターゲーム第一戦で小松辰雄から放った3ランホームランをはじめ4打点を記録しオールスターMVPにも選出された。
1988年、序盤戦こそ不振だったが、復調してからは安打を量産。松永浩美と激しい首位打者闘いを繰り広げ、所謂10.18決戦では2安打を放ち首位打者をほぼ確実のものとした。この2安打のうち1本は2戦目の8回裏に阿波野秀幸から同点となるソロ本塁打であり、近鉄の夢を打ち砕く一打となった。打率.327、14本塁打、64打点、13盗塁を記録し、首位打者のタイトルを獲得、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出された他、158安打はこの年のパ・リーグ最多安打であった。
1989年、開幕前から故障が相次ぎ、やや成績を落とした。シーズンオフには高橋慶彦とのトレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍することになった。
1990年、クリーンナップとしての活躍を期待されたが故障の影響もあり低迷、長嶋清幸と併用となることが多かった。
1991年、前田智徳の台頭もありベンチを温める場面が増え、シーズン途中に古巣ロッテに復帰。
だが、復帰後も以前のような活躍を見せることはできず、1992年限りで現役を引退。
引退後はロッテの打撃コーチや守備走塁コーチを15年以上務めた。
その後は、ロッテの少年野球教室でテクニカルコーチを2019年まで務めた。
2020年保育士の資格獲得を目指し専門学校に入学、2022年から横浜市内の保育園で勤務している。
思い切りの良い打撃で安打を量産した俊足巧打の外野手。強肩の選手でもあり、全力でチャージをかけ、正確かつ素早い送球で捕殺を多数記録したことから「突貫小僧」とも呼ばれた。
少年野球のコーチをしていた際に、子供の成長を見守ることにやりがいを見出し、60歳を越えて保育士を志すようになった。
| 通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1005 | 3714 | 3278 | 503 | 932 | 95 | 399 | 107 | 122 | 17 | 225 | 19 | 391 | 52 | .284 | .342 |
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最終更新:2025/12/05(金) 18:00
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