サミュエル・エトー(Samuel Eto'o, 1981年3月10日-)とは、カメルーン代表のサッカー選手である。ポジションはフォワード。イングランド・プレミアリーグのチェルシーFC所属。サミュエル・エトオと表記されることが非常に多く、またこちらの書き方が一番近いようである。
瞬間的な加速や得点能力、足元の技術に優れるなど理想的なストライカーの資質を持つ一方で、前線からの献身的なプレッシングも持ち味の一つである。
1997年にレアル・マドリードでプロキャリアをスタートするも、トップチームで出場することはほとんどなくレンタル移籍を繰り返した。2000年にマジョルカにレンタル移籍し、シーズン終了後に完全移籍。2002-2003シーズンにはチームをコパ・デル・レイ優勝に導くなど絶対的エースとして活躍。
2004年にFCバルセロナへ移籍。フランク・ライカールト監督の下、加入初年度の2004-2005シーズンは25得点を挙げ6季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献。 2年目の2005-2006シーズンにはリーガ連覇、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成。前年を上回る26得点でリーグ得点王となっている。
怪我による不本意な2シーズンを挟んでジョゼップ・グアルディオラが就任した2008-09シーズン当初、同監督から戦力外通告を言い渡される。ロナウジーニョがACミラン、デコがチェルシーへと、一時代を築いた選手達が次々と放出されたが移籍交渉が難航した事に加え、プレシーズンマッチとCL予備戦での活躍が決め手となり残留。ティエリ・アンリ、リオネル・メッシと強力な3トップを形成し圧倒的な攻撃力でスペインのクラブ史上初となるUEFAチャンピオンズリーグ、リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイの3冠達成に貢献した。
2009年にズラタン・イブラヒモビッチとのトレードでセリエAのインテルへ移籍。2008-2009シーズンにジェノアでセリエA24得点を記録したディエゴ・ミリートも同時期に加入。冬に加入したゴラン・パンデフ含めて3人で3トップを形成。エトーは中心選手としてほぼ全試合にウィングとして出場し、セリエAで12得点を挙げた。そしてインテルはイタリア勢初となるUEFAチャンピオンズリーグ、セリエA、コッパ・イタリアの3冠を達成。エトー個人としては史上初めて2シーズン連続で3冠を達成した選手となった。2010-2011シーズンは得点王こそ逃したが、前年度の2倍近い21得点をマーク。2009-2010シーズンに引き続き中心選手として前線からチームを牽引した。
2011年にロシア・プレミアリーグのアンジ・マハチカラへ移籍。インテルがエトー放出した理由としては高額な年俸がネックになっていることが挙げられる。アンジ・マハチカラには2シーズン在籍し、47試合に出場し23得点を挙げた。
2013年8月、アンジ・マハチカラが経営規模の縮小を発表。選手の移籍が頻繁に行われる中エトーも例外ではなく、古巣インテルなどが関心を寄せたが、最終的に恩師モウリーニョの率いるチェルシーへの移籍が決定した。
サッカーカメルーン代表には1996年にデビュー。2000年、2002年のアフリカネーションズカップで優勝している。2010 FIFAワールドカップではキャプテンを務めた。2011年にボーナス未払い問題で代表戦ストライキを行うなど、カメルーンサッカー協会と対立しており、またFCバルセロナのアレクサンドル・ソングとは以前から確執があり、何かと問題を抱えていることでも有名。
バルセロナ時代、リーグ優勝報告会の席で、古巣レアル・マドリードへ向けて"Madrid, cabrón saluda al campeon!"(くそったれマドリーは王者に挨拶しろ!)と絶叫し物議を醸した。満員の観客を前にテンションが上がり過ぎてしまっていたらしく、翌日に謝罪会見を開いている。
だが現地バルサファンはこのフレーズを大変お気に召したらしく、それ以降のエル・クラシコやレアルが到達出来なかったカップ戦の決勝でチャントとして度々大合唱する姿が見られる。
また、バルセロナで行われたパーティに飛び入り参加するなど退団後もバルサとの交流は深い。折り合いの悪かったグアルディオラとも和解した模様。
インテルでチームメイトだった日本代表・長友佑都曰く、シャワールームで見たエトーのエトーの大きさは半端ではなく、思わず二度見してしまう程の大きさであったという。
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最終更新:2024/05/02(木) 15:00
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