- プロ野球選手一覧 > 多村仁志
多村仁志(本名:多村仁、1977年3月28日-)とは、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手・スペランカー)である。
タヌラ。
概要
OB | |
---|---|
多村仁志 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県厚木市 |
生年月日 | 1977年3月28日 |
身長 体重 |
180cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1994年ドラフト4位 |
経歴 | |
選手歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2006年 |
プロ野球選手テンプレート |
1994年、横浜高校から横浜ベイスターズにドラフト4位で入団。
ポジションは外野手。
2006年オフ、寺原隼人とのトレードにより福岡ソフトバンクホークスに移籍。
40本塁打を放ったこともあるパワーに俊足と強肩を併せ持ち、外野守備も
一級品という名選手……のはずなのだが、およそプロ野球選手とは思えない
虚弱体質のためスペランカーと揶揄される球界屈指のネタ選手。
その圧倒的スペ暦は下記参照。
レギュラー獲得がプロ入り10年目と遅咲きのため、既にベテランと言われる
年齢になっているが、夢のシーズン全試合出場はいつか達成されるのだろうか。
ソフトバンク移籍後は、少々の怪我では休まないようになってきており、
怪我をしても無理して出るようになってきている。
それでも怪我して休むことが多いが。
2012年オフ、吉川輝昭・神内靖と共に江尻慎太郎・山本省吾・吉村裕基との
3対3のトレードで横浜DeNAベイスターズへ移籍。球団名は変わっているが
7年ぶりに古巣へ復帰することとなった。
2015年、9月28日に戦力外通告を告げられ、翌月退団した。
2016年1月16日に中日ドラゴンズと育成選手として契約した。しかしまたしてもケガに見舞われ、1試合も出場できないまま10月1日に戦力外通告を受け、本人も現役引退を表明した。
華麗なるスペランカーの歴史
プロ入り前
- 体育祭のリレーで転倒、靱帯を痛めて救急車で搬送された
- 高校三年の夏、県大会優勝時に歓喜の輪に入ろうとセンターからダッシュ、足が吊ってしまい輪に入れず。みんなが校歌を歌う中、マウンドで一人でうずくまる。
1998年
2003年
- 5/14 左手親指のじん帯断裂で二軍落ち
- 8/11 左手首痛でスタメン落ち
- 9/23 発熱でスタメン落ち
- 9/25 スタメン復帰、死球で途中交代
- 10/6 風邪でスタメン落ち。そのままスタメンに戻ることなく全日程が終了
2004年
- 2/27 ポスター撮影中にジャンプして右足関節捻挫
- 4/30 試合中、突然カゼをひいて退場→診療所で点滴
- 5/ 3 キャッチボールでぎっくり腰、登録抹消
- 6/ 5 フェンスに激突でセルフエルボー、途中交代
- 6/24 前日の試合で空振りした際に肩を痛めスタメン落ち
- 8/11 試合前の練習中に腰を痛めてスタメン落ち
- 8/28 ファインプレーをした際に膝を強打し途中交代
- 9/19 ストライキの際の握手会で左掌の炎症し、その後2日連続スタメン落ち
2005年
- 1/ 1 寒川神社に初詣に行き家族の健康などを祈願するが、自分が風邪をひいてしまう。
- 2/11 沖縄で野球教室を開き、肩に野球バックを掛けたまま何百人にサインした結果、左肩が内出血。
- 3/30 全試合出場を目標に掲げていたが、開幕直前にインフルエンザに罹り緊急入院。開幕三連戦の出場を断念。
- 4/24 サードゴロを打ちヘッドスライディング敢行するもアウト。右肩負傷で途中交代。
- 5/20 センターからバックホームの際、右肘を痛める。
- 6/14 自打球を右足甲に当て途中交代。
- 6/21 疲労をおして出場を続けるも、靴紐を結ぼうとした際にぎっくり腰を発症し、自宅休養。翌日登録抹消。
- 6/29 横須賀の練習場へ向かう途中、愛車が雨でスリップし、側壁に衝突。エアバッグの衝撃で左顔面と左肩を打撲。
自分で119番し、検査のため緊急入院。自身初の新聞一面に。
後に語る「スリップしたとき死んだと思ってハンドルから手を離したが家族の顔が浮かんでまたハンドルを握った」- 7/2 プロレスラーの入場曲を打席に入るときに使用していた、それを聞きつけたカート・アングルが来日して始球式を行うが、入院中の多村は会えず
- 8/28 健康診断で飲んだ造影剤で気持ちが悪くなり、試合を欠場
2006年
- 4/9 4/8に出塁した際、帰塁時に首・肩を痛め、代打のみの出場
- 4/20 打撃練習で左肋軟骨挫傷のため出場選手登録を抹消
- 6/3 打球を追いかけた際に左足首捻挫。途中交代。
- 6/7 捻挫からの復帰第一打席後、本塁突入の際、捕手と激突し古傷の左脇腹を痛めて退場。検査の結果左肋軟骨挫傷の疑い、前半戦絶望。
- 8/20 先日19日に二ヶ月振りに一軍復帰も死球を受ける。20日には腰痛のためスタメン落ち
- 12/5 寺原隼人と1対1の交換トレードが成立、ホークスへ移籍
- 上記の多村のホークスに移籍に関して、王監督の談話「フル出場してもらう。」
2007年
- 2/12 右足かかとに異変→右アキレス腱周囲炎(トレーナーの話だと、靴擦れ?)
- 3/13 一回の打席で自打球を左足に当てる→病院送り
- 3/17 試合前の守備練習で右手中指を負傷。
- 4/ 4 歩幅が合わずにやや大股でベースを踏む→すべって怪我
- 4/30 守備でボールを追っかけ、スライディング→左太もも裏を痛めてベンチへ退く
- 5/19 セカンドベースへスライディングし二塁手が倒れるも、下敷きになり負傷
- 6/20 視覚障害者を招待→自打球を左ふくらはぎに当て、負傷で途中交代
- 11/22 野球日本代表に選ばれ、ヤフードームに凱旋の予定も腰痛が悪化し、練習キャンセルでスタメン落ち
- 11/25 そのまま日本代表から外れる
2008年
- 1/31 右肩違和感で二軍スタート
- 4/02 左ひじに死球を受け退く。
- 4/25 飛球を追い掛けて左翼手と接触し途中交代→右足の腓骨骨折で前半戦絶望
- 5/12 四週間で骨がつく予定→レントゲンを撮っても再生すらしていない。
- 結局一軍復帰は9月上旬にまで延びた。その後足が万全でなく登録抹消。
2009年
- 2/11 右肩に張りを訴えたため、シートノックを二日間休む
- 2/16 両足のすねなどの違和感で練習を早退。全体練習開始前にリタイヤ
- 2/26 左手首違和感で紅白戦回避
- 3/10 首を寝違えて、オープン戦を2試合欠場
- 3/24 全身の張りを訴えてオープン戦欠場。残り5試合には全て出ることを宣言。
- 3/25 帰塁の際、右肩を痛める。次の日のオープン戦全てを欠場。宣言は1日で潰えた。
- 3/29 右肩の違和感でオープン戦欠場
- 3/31 右肩が古傷の炎症のような症状を起こしているため、開幕戦の出場選手登録名簿から外される。
- 5/22 ようやく一軍登録。それに合わせて登録名を「多村仁志」に変更したが、この歳になっての登録名変更は成績悪化フラグであり、野球ファンにとっては「多村な上に仁志とか勘弁してくれよ」である。
- 5/23 一軍復帰後2試合目にして、守備中に逆シングルを突かれた影響で腰を痛め途中交代。
- 6/16 体調不良で欠場。具体的なことについては「いろいろあるし、言いたくない」と言葉を濁す。
- 7/31 体調不良や背中の張りを訴え8/2までスタメンを外れる。
- 8/19 球界でインフルエンザが蔓延する中、気管支炎に罹りスタメンを外れる。
- 8/30 第三打席で川崎が牽制アウトになり、球団公式サイトの試合経過で多村「終了」と書かれる。
- 9/3 左太腿と左手首に2死球を受け、翌日スタメンを外れる。
- 9/29 スタメン出場するも、打席に立つこともなく守備につくこともなく、37度の発熱が原因で交代。楽天対ソフトバンク戦を中継していたニコ生も唖然とする事態になった。
- 10/16 CS第一戦当日、この日になって左腰に違和感を訴える。球場にも向かわず、ホテルで試合観戦。シーズンオフに秋山監督から「来年は肉体改造して、全試合に出場しろ」と怒られる
2010年
- 3/6 ボールを投げた時に人差し指の爪が割れた
- 3/30 全試合フルイニング出場を目標としていたが、秋山監督「今日は出さないよ。寝違えたみたい」とあっさり欠場。
- 5/13 中日戦で自打球により途中交替
- 5/30 再び中日戦で自打球を左臑に当てて途中交替
- 6/7 前日に途中交替し、首痛で欠場
2011年
2012年
2013年
2014年
このようにネタ選手扱いされているがケガさえなければとんでもない怪物であるのは、2004年123試合出場で40本塁打、打率.305、2005年117試合で31本塁打、打率.304の成績が物語っている。
その活躍から第1回WBCで日本代表入りを果たす。その時の要請書を額に入れる程喜んだ。
実際、WBCではレフトで出場し3本塁打9打点を記録しチームトップ(ただしバントが苦手で、大事な場面でバント失敗という場面も見られた)。守備では超ファインプレーでフェンスに激突しながらそのまま出場するなど大活躍、日本のWBC初代王者に大きく貢献した(その後の代表ではレフトの人材難が問題になった)。
こうした体質上、なかなかタイトルとは縁がなかったが、2010年は交流戦で打率.415で首位打者を獲得、途中交代も多かったとはいえ自己最多となる140試合に出場し、打率.324(リーグ5位)、27本塁打(リーグ3位)、89打点(リーグ7位)と打撃主要三部門で全てチームNo.1の成績を記録。外野手では最多得票を獲得して初のベストナインに輝くなど、周囲を驚かせた。さらに、オフにはメジャー挑戦も視野に入れたFA宣言を行うなど色々な意味でファンを心配させたが、結局ソフトバンク残留に落ち着くこととなった。
ところがその1年後、上記の通り、トレードで古巣の横浜DeNAベイスターズに戻ることになった。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
ソフトバンク | 応援歌のピコカキコ一覧#63 | 8616 | |
DeNA | 応援歌のピコカキコ一覧#311 | 9290 |
成績
通算打撃成績
通算:17年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1342 | 4551 | 4140 | 531 | 1162 | 202 | 14 | 195 | 643 | 43 | 7 | 20 | 333 | 49 | 962 | 94 | .281 | .340 |
国際大会での打撃成績
年度 | 代表 | 大会 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | 日本 | WBC | 8 | 35 | 27 | 6 | 7 | 0 | 0 | 3 | 9 | 0 | 1 | 0 | 6 | 1 | 9 | 2 | .259 | .412 |
通算守備成績
機構 | 守備位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 外野手 | 1152 | 1931 | 40 | 20 | 9 | .990 |
表彰・その他
表彰 | ||
---|---|---|
ベストナイン | 1回 | 2010年 |
その他 | ||
全球団から本塁打 | - | 2009年6月2日 |
オールスターゲーム出場 | 1回 | 2010年 |
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関連項目
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