筑紫(測量艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した筑紫型測量艦1番艦である。1941年12月17日竣工。緒戦の南方作戦を陰から支えて成功に導き、その重武装から畑違いの輸送任務にも従事するなど太平洋を縦横無尽に駆け巡った。1943年11月4日、カビエン沖で触雷して沈没。
概要
大日本帝國海軍では1945年8月15日の終戦までに、7隻の測量艦と2隻の特設測量艦を就役させたが、筑紫は最初から測量艦として建造された唯一の艦である。
1930年代、帝國海軍は東南アジアへの進出を目指す南進論を掲げていた。当時東南アジアはアメリカ・イギリス・オランダによって植民地支配されており、仮に南進した場合はこれら列強との戦闘は避けられない上、他国の領海という事で攻略作戦に必要不可欠な海図も入手不可能であった。そこで帝國海軍は強行測量が可能な測量艦の開発に着手。敵の占領海域に殴り込んで沿岸部を強行測量し、海路図と水路図の作成に必要な測量及び気象データなどをかき集めて即席の海図を作り上げ、後続の攻略部隊に情報提供する、というのをコンセプトとした。したがって測量艦ながら海防艦に準じた兵装を持つ。航空測量用に小型水上偵察機まで保有していたのだから驚きである。測量機器としてシ式測量儀2基、電動測深儀2基、F式音響測深儀1基、九一式測深儀1基、測程儀1基などを持ち、直接測量出来ない海域には艦載の測量艇4隻を派遣してデータを収集した。測量・観測・製図を円滑に行えるよう艦内には測量作業室、気象作業室、海象作業室、製図・印刷室が内包され、筑紫1隻だけで海図を製作出来るよう環境が整えられている。航続距離増大のためマン式3号10型ディーゼルエンジンを採用(ちなみにこのディーゼルは戦艦大和に使用するはずだったものを流用)。1400トンの小さな船体に航空機を載せ、乗員と水路部員を合わせた計193名が乗り込んでいた事から非常に窮屈だったと思われる。
筑紫型は1番艦筑紫と2番艦三保が建造される予定だったが、三保は1944年に建造中止となったため筑紫1隻のみの就役となった。
要目は排水量1400トン、全長84m、全幅10.6m、出力5700馬力、最大速力19.7ノット、重油搭載量255トン、乗員は固有128名+水路部員65名。兵装は12cm連装高角砲2門、25mm連装機銃2基、零式小型水上機1機。艦載艇として7.5m内火艇1隻、9mカッター1隻、6m通船1隻、10m測量艇4隻を持つ。
艦歴
殴り込み上等、敵前で活動する測量艦
1937年に策定されたマル三計画により第56号艦の仮称で建造が決定。1940年1月17日に三菱重工横浜船渠で起工、8月30日に特務艦筑紫と命名され、11月29日に進水し、開戦直後の1941年12月17日に竣工を果たした。横須賀鎮守府へ編入されるとともに山高松次郎大佐が艦長に着任、連合艦隊第3艦隊に部署する。
筑紫が竣工した時には既に南方作戦が開始されており、東南アジアにて米英蘭豪からなる連合軍との戦闘が各地で生起。南進論によって生み出された筑紫の眼前にはいきなり求められる戦場が広がっていたのである。このため竣工から僅か3日後の12月20日に第1測量隊を乗せて横須賀を出港、慣熟訓練を行う暇すらなく戦火渦巻く東南アジア方面へ向かい、25日にラモン湾に到着して最初の測量を実施。それが終わると占領したばかりのフィリピン南部ダバオに向かった。
1942年1月1日にダバオへ到着。ニューギニア南西部の海岸で水路測深を行ったり、デ・ジョン岬に30名の測量隊を上陸させるなど、海岸沿いの様々な場所で測量を実施して情報収集。スマトラとジャワへ進攻する前にセレベス島の攻略を決定した蘭印部隊はバンカを攻略部隊の集結地とし、1月12日に筑紫はバンカへの進出を済ませ、1月15日午前0時に新編されたケンダリー攻略部隊の第2梯団に編入される。1月21日に攻略部隊とバンカを出撃。水上機母艦千歳、瑞穂から発進した水上機の上空援護を受けながら進み、1月24日午前15時にケンダリーへ到着して湾内の測量を行う。ダバオを拠点とする航空隊の事前攻撃によりケンダリー周辺のオランダ軍は既に退却していたため順調に作業が進んだ。飛行場占領成功に伴って他の艦艇が続々とケンダリーを離れていく中、筑紫は最後まで湾内に留まって測量を続けて1月30日15時にケンダリーを出発、2月1日午後12時55分にバンカへと戻った。
オランダ軍の本丸ジャワ島、その東部に対する航空攻撃の拠点を得るべくマカッサルの攻略が決定。2月2日午前7時47分、マカッサル攻略作戦に従事するべく第1号、第2号哨戒艇、急設網艦蒼鷹、第3号、第14号駆潜艇に護衛されてバンカを出撃。道中で蒼鷹が潜水艦を探知して爆雷を投下する一幕があったが、2月4日午前6時37分にケンダリー東方のスターリング湾へ到着。ここで給油船さんくれめんて丸に横付けして燃料補給を受けた。続いて2月6日21時30分にケンダリーを出発。道中で敵潜から雷撃を受けて駆逐艦夏潮が被雷沈没する被害が発生したものの、2月8日23時40分にアエンバトバト海岸への上陸に成功、筑紫は2月11日から12日にかけてマカッサル近海に機雷敷設を行う蒼鷹を支援し、2月13日にスターリング湾へ帰投した。
次はジャワ島とオーストラリア北部のポートダーウィンを繋ぐ補給路を寸断するためバリ島の急襲作戦が立案。筑紫は蒼鷹、第2駆潜隊、第1号駆潜艇からなるマカッサル海峡部隊の旗艦となった。連合軍艦隊の襲撃によりバリ島沖海戦が生起したが第8駆逐隊が撃退に成功、バリ島への上陸も成功して速やかに零戦隊が同島に進出している。占領したばかりのバリ島に補給物資を輸送するべく、蘭印部隊はマカッサル海峡部隊から筑紫と第1号駆潜艇を抽出し、第二次輸送作戦兵力に加えた。2月23日18時にマカッサルを出撃。翌24日午前10時に敵機1機が触接されたが敵襲は無く、同日17時、スラバヤの約230海里圏内へ差し掛かった時に味方機から「敵巡洋艦1、駆逐艦3、スラバヤ北方60浬」との報告が入り、軽巡長良と第8、第21駆逐隊がカンゲアン諸島・バリ島間に進出して索敵を行ったが発見には至らなかった。幸い敵襲を受けないまま2月25日午前8時に泊地へ到着。物資揚陸中に敵機若干数が空襲を仕掛け、沖合いには敵艦と思われる艦影(オーストラリアに逃走するためバリ海峡を通過中の米駆逐艦4隻)が見られたが、すぐに逃走したため戦闘も被害も発生しなかった。
東南アジアの制圧が概ね完了した3月10日、連合艦隊第2南遣艦隊附属に編入。4月10日に南方部隊東印部隊ジャワ警備部隊へ転属となり、第21特別根拠地隊と第1測量隊とで南部警備部隊を編制。司令部をスラバヤに置き、「担当区域の防備と警戒」「海上交通保護」「水路測量」の任が与えられてスラバヤ西水道東口、ダバオ、バリクパパンといった各要港及び水路の測量作業を実施。9月7日にシンガポールを出港して9月13日にバリクパパンへと回航。
9月25日に内南洋方面を作戦海域に定める連合艦隊第4艦隊附属へ異動となり、同日中にバリクパパンを出港、10月1日にトラック諸島へ進出する。筑紫は新たに占領下に置かれたギルバート諸島方面の測量作業に従事し、マキン、タラワ、ヤルート、アパママ、ベルなどを巡航。10月15日、タラワで作業中に米重巡ポートランドの艦砲射撃を受け、至近弾で筑紫の内火艇1隻が沈没する被害が発生した。
1943年2月15日、ロイ島にて特設給糧船北上丸から生鮮品の補給を受ける。ギルバート諸島の測量を終えた筑紫は3月12日にトラックへ帰投。3月21日午前7時、特設潜水母艦日枝丸とともに練習巡洋艦香取と駆逐艦江風の護衛を受けてトラックを出港、3月27日正午に横須賀へ到着し、修理のため横浜に回航された。5月20日に南東方面艦隊第8艦隊に転属。5月24日午前10時、商船改造空母冲鷹、雲鷹、練習巡洋艦鹿島、駆逐艦海風、潮とともに横須賀を出港、5月29日午前9時にトラックへと到着する。6月6日にラバウルへ進出、7月9日にラバウル方面防備部隊に編入され、南東方面での測量や輸送任務に従事。
10月12日、米第5空軍とイギリス空軍はB-17とB-24爆撃機合わせて87機、B-25爆撃機114機、ボーファイター12機、P-38戦闘機125機をニューギニアやオーストラリアから出撃させ、ラバウルに対する初の大空襲を仕掛けてきた。筑紫は対空射撃で応戦し、25mm連装機銃1基が故障した他、ウィンドラス室に数ヵ所の小さな破孔が生じる軽微な損害を受ける。10月18日に約50機のB-25がラバウルを空襲したのを皮切りに以後6日間に渡って連日爆撃。50機以上の日本軍機が破壊、第一若松丸、三島丸、京勝丸、駆逐艦望月が撃沈される大損害が生じている。激しい空襲の合間を縫って10月26日に修理完了。11月2日、72機のB-25と80機のP-38からなる戦爆連合がラバウルを空襲して船舶15隻が撃沈される中、シンプソン湾の筑紫は被害を免れた。11月3日、ラバウルに向けてカビエン沖を航行していた清澄丸がB-24の爆撃を受けて損傷したため、軽巡五十鈴に曳航されてカビエンへ退避。清澄丸が運んでいた物資と人員を筑紫と龍王山丸が
引き取りに行く事となり、ラバウルを出発した。
最期
1943年11月4日21時10分頃、カビエン沖のエトマゴー島付近で触雷して沈没。同行していた龍王丸も約5分後に触雷沈没してしまった。米潜水艦シルバーサイズが敷設した機雷によるものとされる一方、オーストラリア空軍のカタリナ飛行艇が敷設した機雷が原因とする資料もある。11月23日、特設工作艦八海丸が筑紫の船体を調査したところ修理不能と判断されて放棄。
1944年1月5日除籍。戦後、南東方面艦隊の参謀は「機雷が軍事作戦や計画を妨害した唯一の場所は、1943年8月以降のカビエンであった」と述懐している。
関連項目
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