藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい 1927~1997)とは、昭和後期から平成初頭にかけて活躍した作家である。
山形県黄金村(現:鶴岡市)出身。
概要
時代小説を中心に様々な小説・エッセイを執筆した。
地の文や情景描写の美しさ、人物の心情描写の巧みさ、「イイハナシダナー」で終らせない深みのあるストーリー展開などで多くの読者を魅了し、没後もなお多くの作品が映画化され続けているなど、その人気は高い。
特に、後述する「海坂藩」を舞台とする下級武士の物語や、江戸市民を描いた市井ものにファンが多い。
藤沢周平とその故郷・山形
例)
・『雲奔る』 主人公・雲井龍雄/米沢藩士、幕末志士
・『回天の門』 主人公・清河八郎/庄内藩士、幕末志士
・『漆の実のみのる国』 主人公・上杉鷹山/米沢藩中興の祖
・『義民が駆ける』 天保義民事件/江戸期の庄内藩の事件
・『長門守の陰謀』 長門守事件/江戸初期の庄内藩の事件
これらに加えて、彼の小説には「海坂藩(うなさかはん)」という架空の藩がよく登場する(『蝉しぐれ』など)。
この「海坂藩」は、「江戸から北へ120里」「北は海に面している」「徳川家譜代大名で、東北の小藩」などの特徴から類推して、藤沢周平の故郷・鶴岡市に位置していた「庄内藩」をモデルにしているものと思われる。
また、「海坂」というネーミングは、藤沢周平が肺結核治療中に参加していた俳諧サークルの名前をとったものであると言われている。
上記のように、故郷・山形への愛着の強い作家で、数々のエッセイの中で、故郷への憧憬の想いを語っている。
元々、藤沢周平には、故郷の学校で教員として働き始めた矢先に肺結核を病み、故郷を離れて東京で療養生活を送らなければならなくなったという経緯がある(そのまま、教員に戻ることはなかった)。
こうした経験から生まれた故郷への憧憬が、作家・藤沢周平の美しい自然描写を可能にさせた一因なのだろう。
藤沢周平の作風
藤沢周平は、デビュー作『溟い海』(くらいうみ、第38回オール讀物新人賞受賞作)からして、ベテラン画家の葛飾北斎が新進気鋭の天才ルーキー画家歌川広重にドロドロとした嫉妬の情念を抱く、という、恐ろしく暗いストーリーを書く作家であった。
これは、藤沢周平が小説を書き始めたきっかけが、妻の死を経験して、その心中の鬱屈を晴らすために執筆を始めたということに由来しているのかもしれない。 と、作者本人もエッセイで語っていた。
しかし、同じエッセイによると、作家デビューを果たしてから4~5年ほどして、「自分の鬱屈を晴らすだけじゃなく、読者を楽しませることも忘れちゃダメだよね」と自覚したらしく、少しずつ作風を変えていく。
作風の変化が顕著なのは『用心棒日月抄』や『よろずや平四郎活人剣』などで、江戸で貧しい浪人暮らしを送る武士たちの様子が、これらの作品ではユーモラスに描かれている(とはいえ、単なるハッピーエンドには終らせないあたり、藤沢周平独自の味はちゃんと活かされている)。
フィクショナルな時代小説ばかりでなく、実在の人物を描いた歴史小説も手掛けた。
こうした歴史小説を書く場合は、ある人物や事件の「通説」と言われる解釈とは異なる解釈で物語を描く、というスタンスを多用していた。
例えば『一茶』では、素朴な歌人とされる小林一茶の、家族から遺産をむしりとる強欲な一面を描き、『回天の門』では、策士と呼ばれる清河八郎の、倒幕のために奔走する誠実な一面を描いている。
その他にも、直江兼続を描いた『密謀』や上杉鷹山を描いた『漆の実のみのる国』などがあり、とくに後者は、肝炎を病みながら執筆を続けた藤沢周平最後の作品である。
この作品を書きあげた半年後に、藤沢周平はこの世を去った。
藤沢周平と受賞
1973年に『暗殺の年輪』で第69回直木賞を受賞した他、 1986年に『白き瓶 小説長塚節』で第20回吉川英治文学賞を受賞するなどした。
その一方で、故郷である鶴岡市から「鶴岡市名誉市民」の顕彰を打診された時は、生前の間は断っていた。
作家は縛られるものが少なくなければなりませんので、と語った直筆の手紙が「藤沢周平記念館」に残されている。
2010年4月には、鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が設立された。
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「海坂藩」ものならこのあたりはいかが?
(※『風の果て』『三屋清左衛門残日録』は「海坂」とは明言されてませんけど)
短編集もいいよね。
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