キャノネロ 単語

キャノネロ

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キャノネロ(Canonero)とは、1968年アメリカ生まれ・ベネズエラ調教(後にアメリカに移籍)の競走馬である。

2022年に至るまで史上一、アメリカ調教としてケンタッキーダービーを制した「カラカス弾」。

概要

Pretendre、Dixieland、Nantallahという血統。
プリテンダーはイギリスにおける重要な2歳戦であるデューハーストS、オブザーヴァーゴールドカップ(現:フューチュリティトロフィーS)の勝利英ダービー2着を含む12戦6勝。一旦アメリカ種牡馬入りした後、本が2歳時の1970年からイギリスニュージーランドを行き来するシャトルサイアーとなったが、その2年後に心臓病のため9歳で世した。
ディキシーランドは12戦1勝。本を受胎している間にセリに出されたが、買い手が付かず2700ドル取りとなっている。本以外の直立たなかったが、牝系子孫はフランスGI2勝を挙げたKendorなどが出て現在でも残っており、日本ではキスミープリンス(2010年全日本2歳優駿3着)が代表格である。
ナンタラは7戦4勝の中級であるが、NureyevSadler's Wellsなどの牝系祖先であるThongのとなったことで後世にその血を大きく広めている。

生産者はノースカロライナ州のであるエドワード・B.ベンジャミンで、本ベンジャミンDixielandを預けていたケンタッキー州クレイボーンファームで生まれた。

デビュー前

は体格自体は普通だったが、前脚が曲がっているという弱点を抱えていた。1歳7月キーランドセールに出たものの血統もショボいし歩き方もおかしいしで買い手が付かず、9月セリでようやく1200ドル(当時の固定相場制に当てはめて日本円換算すると43万2000円)という安値で購入された。

購入したのはルイス・ナヴァスというベネズエラ人の仲買で、同じベネズエラ人のペドロ・バプティスタという実業に本とその他2頭の安を3頭合わせて4500ドルという値段で転売した。バプティスタは配管製造会社を営んでいたがこの時期気が悪く、本デビューするしばらく前には48頭の所有馬の半分を売却するような有様だった。

同じベネズエラ人でバプティスタの所有馬を多く預かっていたフアンアリアス調教師に預けられた本だったが、脚の湾曲に加えて裂蹄や寄生虫症を抱えていることが発覚し、本アリアス師から念入りなケアを受けた。2歳8月になってベネズエラ競馬場であるラ・リンコナー競馬場デビューすることになった。

ケンタッキーダービー挑戦まで

ダート1200mのハンデ戦で迎えた初戦をキャノネロが6身半差で圧勝すると、馬主のバプティスタは本アメリカで走らせる(あわよくばそこで高値で売却する)ことを企図し、カリフォルニア州に向かわせデルマ競馬場で2戦した。しかし、初戦の一般競走は3着、続く2歳の有競走デルマフューチュリティは5着という結果になった。

ここで当時既に頭を現していた名伯楽チャールズ・ウィッティガム師(後に*サンデーサイレンスなどを管理する)が本をつけ、買い手となる馬主の承諾も取り付けて本を購買しようとしたが、あろうことかスペイン語圏であるベネズエラからやって来たキャノネロ営には英語をまともに喋れる人間がいないことが発覚し、ろくに意思疎通が取れず結局破談となった。

この後にキャノネロは帰したが、バプティスタは本が売れずじまいだったことを知ると翌年のケンタッキーダービーをこので勝つと息巻いたという。もっともこの時期はまだアリアス師にすら本気にされていなかったようであるが……。

した後は12月から再びレースに出走し始め、ケンタッキーダービーを3週間後に控えた翌年4月10日までの間に9戦してハンデ戦を5勝したが、その間に出走したステークス競走では12頭中11着に大敗している。この間、2月三冠競走への登録をしようとしたバプティスタだったが、電話ピムリコ競馬場(プリークネスSが開催される)の役員に手続きを頼んだものの、スペイン語訛りの人間がよく分からないの登録を依頼してくるという状況では流石にその場でというわけにも行かなかった(手続きが行われたのは翌日)。

ベネズエラでの最後のレースから1週間後に本アメリカに向かうことになったが、

と二重三重トラブルが起きた挙句、ケンタッキーダービーの1週間前になって競馬場に辿り着いても営の人々がろくに英語を喋れずスタッフと意思疎通がまともに取れないというダメ押しのようなトラブルも起きた。

二冠達成:「謎のベネズエラ馬」から「カラカスの砲弾」へ

アメリカ内における本やその営の扱いは単に「ベネズエラから来た英語を喋れない黒人調教師」のようなものでしかなく、ブックメーカーによっては単勝501倍というオッズを与える会社まであった。体重が減ったのを考慮して調教を手控えていたアリアス師だったが、追い切りでもろくに時計を出さなかったため、アメリカ内の関係者からは散々にかれたし、自においても別にトップホースではなかったということもあり「厳しいだろう」との下評であった。

ケンタッキーダービーが行われる5月1日に1本調教し、減った体重のうち50ポンド(≒22.7kg)くらいは戻して迎えた本番だったが、オッズ上では他5頭と合わせて単勝19.4倍という評価だった。一見すると低いようだが、下位人気システムの都合で自動的にカップリングしたでこうなっているのであり、「20頭のうち人気のない6頭どれかが勝ったら19.4倍」と書けばその評価の低さもい知れよう。事実ネタバレになるがカップリングされた残り5頭はこのレースの下位を独占している。

カリフォルニアダービーを勝ったUnconsciousが1番人気、フロリダダービーを勝った*イースタンフリートが同馬主の*ボールドアンエイブルとカップリングされて2番人気サンタアニタダービーを勝った*ジムフレンチが3番人気で続いた。なお、前文で名前が出たのうちUnconscious以外は日本に輸入され、*イースタンフリートはトウケイホープ(トウケイニセイ)ら地方の活躍を多く出し、*ボールドアンエイブルは重賞3勝を挙げたニチドウアラシなどを出し、*ジムフレンチダービーバンブーアトラスを出している。

さて、ベネズエラトップ騎手であるグスタボ・アビラ騎手を背にスタートを迎えた本は、ハイペースで縦長の展開の中で後方3番手につけた。先頭から20身くらいの差をつけられて進むキャノネロはアリアス師に「自分たちは一体何をやっているんだろう」という念を抱かせるほどの位置取りであったが、しばらくして向こう正面から進出を開始。3~4にかけて外を回って先頭に追いつき、2着*ジムフレンチ一発ムチも入れられることなく3身3/4突き放してゴールした。

私は「初めて海外で勝った」と自分に言い聞かせ、そして非常な幸福を感じたが、それだけではなかった。当時はケンタッキーダービーを勝つということの偉大さと重要性が分かっていなかったのだ。

ーーアリアス師のインタビューexit(2021年)より、和訳は初版執筆者による

アメリカ人たちがだと思っていたベネズエラが勝ったことで場内の観衆や記者たちは然呆然、アリアス師が警備員に部外者と間違われて表式場で門前払いされかけるというハプニングも起きた。所用のため現地に行けずベネズエラに滞在していた馬主のバプティスタが「キャノネロが勝利した」という第一報をジョークと勘違いし、電話がひっきりなしに鳴るのを聞いてようやく本当だと思い至ったという逸話まであるから、多くの人々にとって途轍もないアップセットだったことがえる。序文やこのセクションのタイトルにある「カラカス弾(Caracas Cannonball)」とはこの衝撃から付けられた異名である。

閑話休題、ケンタッキーダービーを制したとなれば続く標は当然プリークネスSであったが、ここで本食欲不振に陥り、蹄叉腐爛(蹄の裏側が細菌によって腐敗する病気)を起こしていることも発覚した。それでもレースには間に合わせ、単勝4倍で*ジムフレンチと並ぶ1番人気タイで出走した。とはいえケンタッキーダービーの勝ち時計Northern Dancerが保有する当時のレースレコード2:00.0より3以上遅い2:03.2だったし、小回りで追い込み勝ちは決まらないだろうという見方もあって、セーブしながらの調整で調教時計立たなかったこともあり本勝利をフロック視する向きもあった。

ところが、レースが始まるとアビラ騎手は積極的に先行。そのまま逃げる*イースタンフリートプレッシャーをかけ続ける位置で競馬をすると、ハイペースにも関わらず最後まで失速することなく、先に脚が上がりながら2着にった*イースタンフリートに1身半差をつけ、レースレコード1:54.6を0.6更新する好時計優勝。見事に二冠を達成した。

3歳シーズン後半

二冠を達成し、ベネズエラ民的英雄となったキャノネロは当然三冠してベルモントパーク競馬場に向かったが、蹄叉腐爛の状態が悪化し、体調はかなり下向きであった。医からも「走れる状況にない」という所見が出るほどで、アリアス師も走るべき状態ではないと感じており、二冠を背負っていなければ回避していたことは想像に難くない。

そんな中で迎えたベルモントS当日、ベルモントパーク競馬場ニューヨークから詰めかけた多くのラティーノの人々のもあり、それまでの記録更新する8万2694人の大観衆を動員した。地元ベネズエラ首都カラカステレビ釘付けになる人が多く、表通りの往来がまばらになったという。

だが、プリークネスSでは万全でない身体を押して勝った本といえども今回は流石に厳しく、後ろにつけていたPass Catcherに直線で交わされると*ジムフレンチケンタッキーダービー3着Bold Reasonにも交わされ4着に終わった。しかし状態を鑑みれば4着(13頭立て)でも上出来と言えたし、実際レース後の観衆は拍手で本を迎えた。

このレース後、馬主のバプティスタは三冠競走が終わった今がトレードのタイミングと判断し、テキサス州のキングランチに本150ドルで売却した。厩舎もアメリカのバディ・ハーシュ厩舎に移ったが、療養のため3歳シーズンの残りは全休となった。それでもトラヴァーズSなどを勝ったBold Reasonを抑えてこの年から創設されたエクリプス賞の最優秀3歳を受賞している。

その後

ベルモントSから約1年後、移籍初戦のカーターHは不良馬場で2着となったが、続くメトロリタンHではかつてプリークネスSで6着に破ったExecutionerにボコられ8着、7月に出走した芝2戦はいずれも大敗、脚元をダートに戻した8月の一般競走も後にSecretariatから大金星を挙げることになるOnionから6身差の2着と振るわなかった。

ハーシュ師は色々考えた末、ベネズエラから三冠競走を共に戦ったアビラ騎手を招聘して本上に再び据えた。そして一般競走5着を経て臨んだスタイミーHでは、この年のケンタッキーダービーベルモントSを勝ったRiva Ridgeに5身差をつけ、全レコードタイコースレコード勝ちを収めた。しかし、続く一般競走でこの年のジョッキークラブゴールドカップを勝ちエクリプス賞最優秀古に選ばれることになるAutobiographyの2着となったのを最後に、脚部不安のため引退となった。種牡馬としてはアメリカで活動したものの好成績を残せず1981年に生ベネズエラに戻ってきたが、その年の11月心臓発作のため13歳の若さで急死した。

通算成績は23戦9勝。大レースの勝ちケンタッキーダービープリークネスSのみであるが、その2勝はベネズエラ調教として挙げた2勝である。
三冠に挑んだ2年後に圧倒的な強さで三冠を射抜いたSecretariatを筆頭に数多くのスターホースたちが駆け抜けた1970年代アメリカ競馬史において、キャノネロは間違いなくその明期にを打ち立てた名であった。

血統表

Pretendre
1963 栗毛
Doutelle
1954 栗毛
Prince Chevalier Prince Rose
Chevalerie
Above Board Straight Deal
Feola
Limicola
1948 栗毛
Verso Pinceau
Variete
Uccello Donatello
Great Tit
Dixieland
1961 鹿毛
FNo.4-n
Nantallah
1953 鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Shimmer Flares
Broad Ripple
Ragtime Band
1945 鹿毛
Johnstown Jamestown
La France
Martial Air Man o'War
Baton
競走馬の4代血統表

クロスBlenheim 5×5(6.25%)

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