マンノウォー 単語


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マンノウォー

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マンノウォー(Man o' War/man-o-war)とは、「軍隊式の」を表す英語。o' はofの縮約形。

曖昧さ回避

  1. 軍艦の意
  2. Portuguese Man o' War - クラゲの一種、カツオノエボシ英語
    1. 《大クラゲ/Man-o'-War》-『マジック・ザ・ギャザリング』のカードの一つ。
  3. Manowar - アメリカヘヴィメタルバンド
  4. Man o' War - 1917年生まれのアメリカ生産・調教競走馬本記事で解説

概要

アメリカ競馬然とく金字であり、1999年アメリカの競馬誌「ブラッドホース」の企画20世紀のアメリカ名馬100選」では、80年近く前のにも関わらず1位に選出されている。また、ESPNによる「20世紀の北米トップアスリー100」では競走馬にもかかわらず84位に選出されている(他に競走馬は35位にセクレタリアト、97位にサイテーションが選定されている)。

あだ名は燃えるようなみを帯びた栗毛を持つ巨だったことからビッグレッド
クレタリアト・ージーゴーア・イントギヴンら毛を持つ巨漢引き継がれている。 

血統背景

Fair Play(フェアプレイ)、Mahubah(マフバー)、Rock Sand(ロックサンド)という血統。

フェアプレイは当時のアメリカセントレジャーポジションだったローレンスリアライゼーションS(現在止)に勝利している。種牡馬としても3回のリーディングサイアーいている。

マフバーデビュー5戦で初勝利を挙げた直後に引退したが、これに関しては「あまりにも神経質すぎたので引退せざるを得なかった」「大人しかったので気性がしいフェアプレイを上手く薄めたを出すことを期待されて引退した」という逆の説が伝わる。産駒は全てフェアプレイとの間に産んでいる。

ロックサンドイギリスクラシック三冠

出自

マンノウォーを生産したのはアメリカでのロスチャイルド銀行グループの総支配人であり、ニューヨークジョッキークラブ会長で、さらにベルモントパーク競馬場の設立者でもあるオーガストベルモント2世イギリス三冠馬ロックサンド種牡馬としてアメリカに連れてこられたのも彼のおかげである。

マンノウォーが産まれた1週間後にアメリカドイツ宣戦布告して第一次世界大戦に加わり、ベルモント氏も65歳の老齢ながら志願兵となった。エレノア夫人は彼を応援するためにに「マイマンノウォー」と名付けたが、ベルモント氏は軍務に専念するためにこの年の生産をすべて手放すことにし、セリに出された時には単に「マンノウォー」という名前になっていた。

セリで売れ残り、かなり安い値段で売られようとしていたところをサミュエルリドル氏に僅か5000ドル(現在の8万5000ドル程度)で買われたマンノウォーはルイス・フォイステル調教師に預けられた。ベルモント氏とも付き合いのあったフォイステル師の勧めで購入したものだが、勧めた理由も「競馬がダメでもしい気性があるから狩猟用の乗に使える」というようなもので、初期の評価が高かったわけではなかった。

フォイステル師がを付けた本の気性のしさは凄まじいもので、ある時は後の戦となるジョニーロフタス騎手を振り落として10m以上も吹っ飛ばし、本は15分ほど放状態で走り回っていたという若干臭い逸話が残っている。

しかしフォイステル師は致に時間がかかりながらもマンノウォーをじっくりと育て上げた。均を3リットル以上上回るカイバ然とらげる大食だったことも相まって、2歳のときには競馬記者話題になるほどの体になっていた。

2歳時

マンノウォーは6月6日未勝利戦(5ハロン)でデビューすると単勝1.6倍の圧倒的1番人気となり、それに応えて直線で手綱を絞られる場面を見せながら6馬身差の圧勝を決めた。3日後のキーン記念S(5.5ハロン)、その2週間後のユーフルS(5.5ハロン)でも危なげなく勝利した。この3戦で強い勝ち方をしたため、その2日後のハドスンS(5ハロン)からは2歳6ヶという若駒にも関わらず130ポンド(約59kg)の斤量を背負わされたが持ったまま半馬身差で楽勝。12日後のレモントS(6ハロン)も1馬身差で逃げ切った。8月まで短期休養したあと、有力が集まるユナテッドステーツホテルS(6ハロン)に出走し、ここでも130ポンドを背負わされたがUpset(アプセット)に2馬身差をつけて逃げ切った。

11日後のサンフォード記念S(6ハロン)でも130ポンドを背負って出走したが、ここでマンノウォーは大きく出遅れてしまった。ゆっくり追い付かせて第4コーナーでは3番手まで進出し、先行するアプセットを追い上げるも、ロフタス騎手マークしていたが伸びずに進路を塞がれるロスいて、アプセットに半馬身差まで詰め寄るるのがやっとであった。これは結果的にマンノウォーの一の敗戦となった
ちなみにここでマンノウォーが負けていなければ、同現在まで残るColin(コリン)の15戦敗の記録[1]更新する21戦敗となり、「アメリカにおける大競走勝ちの最多記録」の保持になっていたところだったのだが、アプセットを管理していたのは皮にもそのコリンを管理していたサー・ジェームズロウ師であった。

後にアプセットに騎乗したウィリー・ナップ騎手は「偉大なの戦績に傷をつけてしまって申し訳ない」と語っている。「upset」という単語はこれ以前から存在していたが、「番狂わせ」という意味で定着したのはこのレースがきっかけだとも言われている。出遅れた上に内を突いて前が壁になるという短距離戦では致命的な失態を犯してしまったロフタス騎手は当然凄まじい非難を浴びたが、逆にの方はゴール前の追い込みで評価が上昇した。
ちなみにレースが開催されたサラトガ競馬場はこれがきっかけで「チャンピオン墓場」と言われるようになった。このレースの後にもセクレタリアトシガーアメリカンファラオといった多くの名予想外の敗戦を喫する度に語られるようになるジンクスの始まりである。

さて、その後マンノウォーは10日後のグランドユニオンホテルS(6ハロン)でアプセットリベンジし、翌週に出走した当時の2歳最強ホープフルS(6ハロン)では2着に4馬身差を付けて勝利。当時の2歳戦最高額のベルモントフューチュリティS(6ハロン)でも1馬身半差で勝利した。

シーズン終了後、ロフタス騎手ウィリー・ナップ騎手騎手免許更新を拒否されるという事件が起こった。どうやらサンフォード記念Sでの敗戦に八百長疑惑が出たかららしく、「臭いものに蓋」的な措置で免許を剥奪されたものらしい。これで宙に浮いた本上には、新たにクラレンス・クマー騎手が就いた。

3歳

当時はケンタッキーダービープリークネスSといった高額賞金レースがすでに存在していたものの、まだ「三冠」という概念が明確に存在していたわけではなく、ウィザーズS(1マイル)、ベルモントS(当時11ハロン)、ローレンスリアライゼーションS(13ハロン)の3競走が最高クラスとされていたというだけであった。輸送手段が発達していなかったこともあってリドル氏は拠点ニューヨークから約1000km離れたケンタッキー州のケンタッキーダービーを軽視していた節があったらしく、結局マンノウォーはケンタッキーダービーに出ることはかった。

3歳初戦にはプリークネスS(当時9ハロン)が選ばれ、アプセットに1馬身半差で勝利した。ちなみに、マンノウォーの出走したレースが5頭立て以上となったのはこれが最後だった。続くウィザーズSでは1:35.8という当時のコースレコード勝利し、定量戦であることと賞金の安さから2頭立てとなったベルモントSでは2着に20馬身をつけて2:14.2の北米レコード勝利した。

スタイヴァサントH(1マイル)では対戦相手より32ポンド(約14.5kg)も重い135ポンド(約61kg)を背負ったが単勝1.01倍の圧倒的人気に応えて8馬身差で勝利した。ワイヤーS(9ハロン)では2頭立てでJohn P. Grier(ジョンピーグリア)と並走する形となったが、マンノウォーはを使って1馬身半差振り切り、1:49.2の北米レコード勝利した。ジョンピーグリアは負けたにも関わらず「マンノウォーに本気を出させた」として評価されることになった。

ミラーS(9.5ハロン)を6馬身差で勝利した後、2週間後のトラヴァーズS(10ハロン)ではアプセットジョンピーグリアが出走してきたが、アプセットに2馬身半差をつけて勝利した。

これらの内容のためローレンスリアライゼーションSは単走寸前になり、新聞に「10頭から12頭、最低5~6頭でも出てくれれば、伝統あるこのレースの価値を守ることが出来るのです」という悲惨な広告が載った上、これを見て出走してきた1頭のも直前で回避してしまった。結局リドル氏の族が所有するHoodwink(フッドウインク)というとのマッチレースになったが、「マンノウォーがラチを飛び越えて逃げ出さない限り、フッドウインクの勝ちはない」というような下評通り、マンノウォーが2:40.8という世界レコード叩き出した上で100馬身をつけるというあたまのおかしい記録を残し勝利した。「1マイル差だったのをあまりにも大きすぎたので100馬身に直した」なんていう説が飛び出すほどの大差であった。

1週間後のジョッキークラブゴールドカップ(当時11ハロン)では15馬身差で2:28.8の北米レコード勝利した。また1週間後のポトマックH(8.5ハロン)では138ポンド(約62.5kg)というハンデをつけられたが、1:44.8のコースレコードを出し1馬身半差で勝利した。

流石のマンノウォーも連戦の疲れでガタが来ていたが、最後に1歳上の世代の最強Sir Barton(サーバートン)との対戦を考え、カナダのケニルワースパーク競馬場で招待競走として行われたケニルワースパークゴールドカップ(10ハロン)に出走すると、サーバートン7馬身で千切り捨て、従来の記録6以上更新する2:03.0のコースレコードを打ち立てて勝利した[2]。一説にはこれが映像一部始終記録された最初の競馬の競走であるとも言われる。

4歳時も一応現役続行の意思はあったようだが、リドル氏がジョッキークラブに対して本が仮にハンデ戦に出た場合の想定斤量はどのくらいになるか問い合わせたところ150ポン(約68kg)という回答が返ってきたため、流石理だということで引退となった。競走成績は実に21戦20勝であった。

種牡馬として 

大きな期待を持たれ種牡馬入りしたが、オーナーリドル氏の「安売りはしないぞ! マンノウォーはスペシャルだからな!」という希少度つり上げの方針から年に25頭にしか種付け出来なかったため、一番多い年でも21頭しか生まれなかったという。
そんな中でも三冠馬War Admiral(ウォーアドミラル)、ベルモントSを勝ったAmerican Flag(アメリカフラッグ)とCrusader(クルセイダー)など次々に大レースの勝ちを輩出。1926年にはリーディングサイアーを獲得し、19世紀の大種牡馬Lexington(レキシントン)が保持していた産駒の年間獲得賞金記録を60年ぶりに更新している。孫世代もどんどん血を広げ、かつて大勢力を誇りながらヘロドエクリプス駆逐された偉大なご先祖様マッチェムの系譜の存続に大いに貢献してみせた。

日本にも月友(つきとも)が持込として輸入されたが、競走馬として走ることなく種牡馬入り。戦前から戦後にかけて*トウルヌソルや*ダイオライトリーディングを争う名種牡馬として活躍した。直系こそすでに途絶えたが、在来の血を引く血統表には月友の名を見ることもあろう。
現在でも彼の血を引くは各地で活躍しており、アメリカでは現役時代大活躍したTiznow(ティズナウ)が種牡馬としても活躍、日本でも少し前にサニングデールカルストンライトオGI戦線を賑わしていた。直系以外も含めると更に顕著で、2020年現在アメリカの年度代表表であるエクリプス賞の受賞でマンノウォーの血を1滴も持っていないのは1994年の最優秀障害Warm Spell(ウォームスペル)が最後、地に限ると1992年の最優秀古馬Pleasant Tap(プレザントタップ)が最後である。
メリカの偉大なるビッグレッドは、名馬基礎として今後も生き続けるであろう。 

血統表

Fair Play
1905 栗毛
Hastings
1893 黒鹿毛
Spendthrift Australlian
Aerolite
Cinderella Tomahawk
Manna
Fairy Gold
1896 栗毛
Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Dame Masham Galliard
Pauline
Mahubah
1910 鹿毛
FNo.4-c
Rock Sand
1900 黒鹿毛
Sainfoin Springfield
Sanda
Roquebrune St. Simon
St. Marguerite
Merry Token
1891 鹿毛
Merry Hampton Hampton
Doll Tearsheet
Mizpah Macgregor
Underhand Mare

クロス:Galopin 5×5(6.25%)、Hermit 5×5(6.25%)

主な産駒

関連動画

関連項目

Man o' War 1917
|Hard Tack 1926
||Seabiscuit 1933
|月友 1932
|カイソウ 1941
|ミハルオー 1945
||ツキカワ 1948
|オートキツ 1952
War Admiral 1934
||*ブリカバック 1941
|||フジノオー 1959
||*リンボー 1949
|||ヒカルタカイ 1964
War Relic 1938
||Relic 1945
|||Buisson Ardent 1953
||||*シルバーシャーク 1963
|||||Simead 1968
||||||Own Opinion 1975
|||||ホワイトナルビー 1974
|||*ヴェンチア 1957
||||タカエノカオリ 1971
||||クライムカイザー 1973
|Intent 1948
|||Intentionally 1956
||||In Reality 1964
|||||Relaunch 1976
||||||Cee'z Tizzy 1987
|||||||Tiznow 1997
||||||Honour and Glory 1993
|||||||ネームヴァリュー 1998
|||||||Put It Back 1998
||||||||Touriga 2015
|||||Known Fact 1977
||||||*ウォーニング 1985
|||||||*アヌスミラビリス 1992
|||||||カルストンライトオ 1998
|||||||サニングデー1999
||||||*マークオブディスティンクション 1986
|||||||ホッカイルソー 1992

脚注

  1. *ただし単に北米記録に限れば現在20052008年にかけてニューメキシコ州のみで作ったPeppers Pride(ペッパープライド)の19勝敗に更新されている
  2. *ちなみにこのレースにはマンノウォーの2歳上のケンタッキーダービーで生涯100戦50勝という成績を残したExterminator(エクスターミネーター)が出走予定だったが回避したという説がある。一方で「エクスターミネーターは招待されておらず、逆にエクスターミネーター営からのマッチレースの申し込みをマンノウォー営が拒否した」という説もあり、相ははっきりしない。
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