マンノウォー(Man o' War/man-o-war)とは、「軍隊式の」を表す英語。o' はofの縮約形。
アメリカ競馬に燦然と輝く金字塔であり、1999年のアメリカの競馬誌「ブラッド・ホース」の企画「20世紀のアメリカ名馬100選」では、80年近く前の馬にも関わらず1位に選出されている。また、ESPNによる「20世紀の北米のトップアスリート100」では競走馬にもかかわらず84位に選出されている(他に競走馬は35位にセクレタリアト、97位にサイテーションが選定されている)。
あだ名は燃えるような赤みを帯びた栗毛を持つ巨漢馬だったことからビッグレッド。
セクレタリアト・イージーゴーア・ポイントギヴンら栗毛を持つ巨漢馬に引き継がれている。
父Fair Play(フェアプレイ)、母Mahubah(マフバー)、母父Rock Sand(ロックサンド)という血統。
父フェアプレイは当時のアメリカのセントレジャーのポジションだったローレンスリアライゼーションS(現在は廃止)に勝利している。種牡馬としても3回のリーディングサイアーに輝いている。
母マフバーはデビュー5戦目で初勝利を挙げた直後に引退したが、これに関しては「あまりにも神経質すぎたので早期引退せざるを得なかった」「大人しかったので気性が激しいフェアプレイを上手く薄めた仔を出すことを期待されて早期引退した」という真逆の説が伝わる。産駒は全てフェアプレイとの間に産んでいる。
マンノウォーを生産したのはアメリカでのロスチャイルド銀行グループの総支配人であり、ニューヨークジョッキークラブ会長で、さらにベルモントパーク競馬場の設立者でもあるオーガスト・ベルモント2世。イギリス三冠馬のロックサンドを種牡馬としてアメリカに連れてこられたのも彼のおかげである。
マンノウォーが産まれた1週間後にアメリカがドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に加わり、ベルモント氏も65歳の老齢ながら志願兵となった。エレノア夫人は彼を応援するために仔馬に「マイマンノウォー」と名付けたが、ベルモント氏は軍務に専念するためにこの年の生産馬をすべて手放すことにし、セリに出された時には単に「マンノウォー」という名前になっていた。
セリで売れ残り、かなり安い値段で売られようとしていたところをサミュエル・リドル氏に僅か5000ドル(現在の8万5000ドル程度)で買われたマンノウォーはルイス・フォイステル調教師に預けられた。ベルモント氏とも付き合いのあったフォイステル師の勧めで購入したものだが、勧めた理由も「競馬がダメでも激しい気性があるから狩猟用の乗馬に使える」というようなもので、初期の評価が高かったわけではなかった。
フォイステル師が目を付けた本馬の気性の激しさは凄まじいもので、ある時は後の主戦となるジョニー・ロフタス騎手を振り落として10m以上も吹っ飛ばし、本馬は15分ほど放馬状態で走り回っていたという若干嘘臭い逸話が残っている。
しかしフォイステル師は馴致に時間がかかりながらもマンノウォーをじっくりと育て上げた。平均を3リットル以上上回るカイバを平然と平らげる大食漢だったことも相まって、2歳のときには競馬記者の話題になるほどの馬体になっていた。
マンノウォーは6月6日の未勝利戦(5ハロン)でデビューすると単勝1.6倍の圧倒的1番人気となり、それに応えて直線で手綱を絞られる場面を見せながら6馬身差の圧勝を決めた。3日後のキーン記念S(5.5ハロン)、その2週間後のユースフルS(5.5ハロン)でも危なげなく勝利した。この3戦で強い勝ち方をしたため、その2日後のハドスンS(5ハロン)からは2歳6ヶ月という若駒にも関わらず130ポンド(約59kg)の斤量を背負わされたが持ったまま半馬身差で楽勝。12日後のトレモントS(6ハロン)も1馬身差で逃げ切った。8月まで短期休養したあと、有力馬が集まるユナイテッドステーツホテルS(6ハロン)に出走し、ここでも130ポンドを背負わされたがUpset(アプセット)に2馬身差をつけて逃げ切った。
11日後のサンフォード記念S(6ハロン)でも130ポンドを背負って出走したが、ここでマンノウォーは大きく出遅れてしまった。ゆっくり追い付かせて第4コーナーでは3番手まで進出し、先行するアプセットを追い上げるも、ロフタス騎手がマークしていた馬が伸びずに進路を塞がれるロスも響いて、アプセットに半馬身差まで詰め寄るるのがやっとであった。これは結果的にマンノウォーの唯一の敗戦となった。
ちなみにここでマンノウォーが負けていなければ、同馬は現在まで残るColin(コリン)の15戦無敗の記録[1]を更新する21戦無敗となり、「アメリカにおける大競走勝ち馬の最多無敗記録」の保持馬になっていたところだったのだが、アプセットを管理していたのは皮肉にもそのコリンを管理していたサー・ジェームズ・ロウ師であった。
後にアプセットに騎乗したウィリー・ナップ騎手は「偉大な馬の戦績に傷をつけてしまって申し訳ない」と語っている。「upset」という単語はこれ以前から存在していたが、「番狂わせ」という意味で定着したのはこのレースがきっかけだとも言われている。出遅れた上に内を突いて前が壁になるという短距離戦では致命的な失態を犯してしまったロフタス騎手は当然凄まじい非難を浴びたが、逆に馬の方はゴール前の追い込みで評価が上昇した。
ちなみにレースが開催されたサラトガ競馬場はこれがきっかけで「チャンピオンの墓場」と言われるようになった。このレースの後にもセクレタリアトやシガー、アメリカンファラオといった多くの名馬が予想外の敗戦を喫する度に語られるようになるジンクスの始まりである。
さて、その後マンノウォーは10日後のグランドユニオンホテルS(6ハロン)でアプセットにリベンジし、翌週に出走した当時の2歳最強戦ホープフルS(6ハロン)では2着に4馬身差を付けて勝利。当時の2歳戦最高額のベルモントフューチュリティS(6ハロン)でも1馬身半差で勝利した。
シーズン終了後、ロフタス騎手とウィリー・ナップ騎手が騎手免許の更新を拒否されるという事件が起こった。どうやらサンフォード記念Sでの敗戦に八百長疑惑が出たかららしく、「臭いものに蓋」的な措置で免許を剥奪されたものらしい。これで宙に浮いた本馬の鞍上には、新たにクラレンス・クマー騎手が就いた。
当時はケンタッキーダービー、プリークネスSといった高額賞金レースがすでに存在していたものの、まだ「三冠」という概念が明確に存在していたわけではなく、ウィザーズS(1マイル)、ベルモントS(当時11ハロン)、ローレンスリアライゼーションS(13ハロン)の3競走が最高クラスとされていたというだけであった。輸送手段が発達していなかったこともあってリドル氏は拠点のニューヨークから約1000km離れたケンタッキー州のケンタッキーダービーを軽視していた節があったらしく、結局マンノウォーはケンタッキーダービーに出ることは無かった。
3歳初戦にはプリークネスS(当時9ハロン)が選ばれ、アプセットに1馬身半差で勝利した。ちなみに、マンノウォーの出走したレースが5頭立て以上となったのはこれが最後だった。続くウィザーズSでは1:35.8という当時のコースレコードで勝利し、定量戦であることと賞金の安さから2頭立てとなったベルモントSでは2着に20馬身差をつけて2:14.2の北米レコードで勝利した。
スタイヴァサントH(1マイル)では対戦相手より32ポンド(約14.5kg)も重い135ポンド(約61kg)を背負ったが単勝1.01倍の圧倒的人気に応えて8馬身差で勝利した。ドワイヤーS(9ハロン)では2頭立てでJohn P. Grier(ジョンピーグリア)と並走する形となったが、マンノウォーは鞭を使って1馬身半差振り切り、1:49.2の北米レコードで勝利した。ジョンピーグリアは負けたにも関わらず「マンノウォーに本気を出させた馬」として評価されることになった。
ミラーS(9.5ハロン)を6馬身差で勝利した後、2週間後のトラヴァーズS(10ハロン)ではアプセットとジョンピーグリアが出走してきたが、アプセットに2馬身半差をつけて勝利した。
これらの内容のためローレンスリアライゼーションSは単走寸前になり、新聞に「10頭から12頭、最低5~6頭でも出てくれれば、伝統あるこのレースの価値を守ることが出来るのです」という悲惨な広告が載った上、これを見て出走してきた1頭の馬も直前で回避してしまった。結局リドル氏の親族が所有するHoodwink(フッドウインク)という馬とのマッチレースになったが、「マンノウォーがラチを飛び越えて逃げ出さない限り、フッドウインクの勝ち目はない」というような下馬評通り、マンノウォーが2:40.8という世界レコードを叩き出した上で100馬身差をつけるというあたまのおかしい記録を残し勝利した。「1マイル差だったのをあまりにも大きすぎたので100馬身に直した」なんていう説が飛び出すほどの大差であった。
1週間後のジョッキークラブゴールドカップ(当時11ハロン)では15馬身差で2:28.8の北米レコードで勝利した。また1週間後のポトマックH(8.5ハロン)では138ポンド(約62.5kg)というハンデをつけられたが、1:44.8のコースレコードを出し1馬身半差で勝利した。
流石のマンノウォーも連戦の疲れでガタが来ていたが、最後に1歳上の世代の最強馬Sir Barton(サーバートン)との対戦を考え、カナダのケニルワースパーク競馬場で招待競走として行われたケニルワースパークゴールドカップ(10ハロン)に出走すると、サーバートンを7馬身差で千切り捨て、従来の記録を6秒以上も更新する2:03.0のコースレコードを打ち立てて勝利した[2]。一説にはこれが映像で一部始終を記録された最初の競馬の競走であるとも言われる。
4歳時も一応現役続行の意思はあったようだが、リドル氏がジョッキークラブに対して本馬が仮にハンデ戦に出た場合の想定斤量はどのくらいになるか問い合わせたところ150ポンド(約68kg)という回答が返ってきたため、流石に無理だということで引退となった。競走成績は実に21戦20勝であった。
大きな期待を持たれ種牡馬入りしたが、オーナーのリドル氏の「安売りはしないぞ! マンノウォーはスペシャルだからな!」という希少度つり上げの方針から年に25頭にしか種付け出来なかったため、一番多い年でも21頭しか生まれなかったという。
そんな中でも三冠馬War Admiral(ウォーアドミラル)、ベルモントSを勝ったAmerican Flag(アメリカンフラッグ)とCrusader(クルセイダー)など次々に大レースの勝ち馬を輩出。1926年にはリーディングサイアーを獲得し、19世紀の大種牡馬Lexington(レキシントン)が保持していた産駒の年間獲得賞金記録を60年ぶりに更新している。孫世代もどんどん血を広げ、かつて大勢力を誇りながらヘロドやエクリプスに駆逐された偉大なご先祖様マッチェムの系譜の存続に大いに貢献してみせた。
日本にも月友(つきとも)が持込馬として輸入されたが、競走馬として走ることなく種牡馬入り。戦前から戦後にかけて*トウルヌソルや*ダイオライトとリーディングを争う名種牡馬として活躍した。直系こそすでに途絶えたが、在来牝馬の血を引く馬の血統表には月友の名を見ることもあろう。
現在でも彼の血を引く馬は各地で活躍しており、アメリカでは現役時代大活躍したTiznow(ティズナウ)が種牡馬としても活躍、日本でも少し前にサニングデールやカルストンライトオがGI戦線を賑わしていた。直系以外も含めると更に顕著で、2020年現在、アメリカの年度代表表彰であるエクリプス賞の受賞馬でマンノウォーの血を1滴も持っていないのは1994年の最優秀障害馬Warm Spell(ウォームスペル)が最後、平地に限ると1992年の最優秀古馬牡馬Pleasant Tap(プレザントタップ)が最後である。
アメリカの偉大なるビッグレッドは、名馬の基礎として今後も生き続けるであろう。
| Fair Play 1905 栗毛 |
Hastings 1893 黒鹿毛 |
Spendthrift | Australlian |
| Aerolite | |||
| Cinderella | Tomahawk | ||
| Manna | |||
| Fairy Gold 1896 栗毛 |
Bend Or | Doncaster | |
| Rouge Rose | |||
| Dame Masham | Galliard | ||
| Pauline | |||
| Mahubah 1910 鹿毛 FNo.4-c |
Rock Sand 1900 黒鹿毛 |
Sainfoin | Springfield |
| Sanda | |||
| Roquebrune | St. Simon | ||
| St. Marguerite | |||
| Merry Token 1891 鹿毛 |
Merry Hampton | Hampton | |
| Doll Tearsheet | |||
| Mizpah | Macgregor | ||
| Underhand Mare |
クロス:Galopin 5×5(6.25%)、Hermit 5×5(6.25%)
Man o' War 1917
|Hard Tack 1926
||Seabiscuit 1933
|月友 1932
||カイソウ 1941
||ミハルオー 1945
||ツキカワ 1948
||オートキツ 1952
|War Admiral 1934
||*ブリッカバック 1941
|||フジノオー 1959
||*リンボー 1949
|||ヒカルタカイ 1964
|War Relic 1938
||Relic 1945
|||Buisson Ardent 1953
||||*シルバーシャーク 1963
|||||Simead 1968
||||||Own Opinion 1975
|||||ホワイトナルビー 1974
|||*ヴェンチア 1957
||||タカエノカオリ 1971
||||クライムカイザー 1973
||Intent 1948
|||Intentionally 1956
||||In Reality 1964
|||||Relaunch 1976
||||||Cee'z Tizzy 1987
|||||||Tiznow 1997
||||||Honour and Glory 1993
|||||||ネームヴァリュー 1998
|||||||Put It Back 1998
||||||||Touriga 2015
|||||Known Fact 1977
||||||*ウォーニング 1985
|||||||*アヌスミラビリス 1992
|||||||カルストンライトオ 1998
|||||||サニングデール 1999
||||||*マークオブディスティンクション 1986
|||||||ホッカイルソー 1992
掲示板
9 ななしのよっしん
2022/01/07(金) 20:39:47 ID: VUsgx6rbVo
>>6
1馬身差でおおよそ0.2秒と言われているから100馬身差なら20秒くらいか
あのヘヴィータンクの1着との差が大体それくらいなんだな
10 ななしのよっしん
2022/04/24(日) 16:18:39 ID: 8vIn+BnFSD
>>8
クラブの方にラフィアンってつけるくらいだし総帥の年代的にはセクレタリアトの方だと思ってる
そうだとしたら元ネタの元ネタって感じだけどどっちなんだろうな
11 ななしのよっしん
2022/08/26(金) 11:51:33 ID: puP6BJgf3H
>>10
なんかのインタビューでセクレタリアトの方だって言ってた覚えがある
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/26(金) 15:00
最終更新:2025/12/26(金) 14:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。