セクレタリアト 単語

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セクレタリアト(Secretariat1970年 - 1989年)とは、アメリカ合衆国の元競走馬・元種牡馬。第9代アメリカ三冠馬にして、Man o'Warと並ぶアメリカ競馬の二大巨頭であり、アメリカ競馬界の最終兵器的存在である。

名は「事務局」あるいは「書記職」という意味で、生産牧場であるメドウステーブル事務員にして本の名付けであるエリザベスハムの前職に由来する。また燃えるような赤毛からMan o'War譲りの「Big Red」という異名でもしまれた。

概要

Bold RulerSomethingroyalPrincequilloという血統。ボールドルーラーはセクレタリアトが生まれた時点でリーディングサイアーを6回獲得、サムシングロイヤルは既に競走・繁殖双方で成功したSir Gaylordなど3頭のステークスウィナーを産んでおり、プリンスキロ種牡馬として既に大成功を収めているという良血である。

Bold Rulerの所有者であるフィップスは、「種付け料を無料にする代わりに、2頭の繁殖牝馬から翌年産まれる産駒の所有者を繁殖牝馬の所有者とフィップスの間のコイントスで決める」という変わった契約を用いていた。肌馬の持ちからしたら種付け料を浮かせられるし、フィップスの方もを獲得出来たには良質な繁殖を導入出来るから、どちらにもメリットがあるというわけである。

そして、この契約によって行われたコイントスの末、Somethingroyal1970年産駒はメドウステーブルを重病のクリストファーから受け継いで経営していたペニー・チェネリーの所有と決定。このこそ、のちのセクレタリアトである。

2歳時

生後すぐの段階で「見た人はみな気に入るだろう」と評されたセクレタリアトは、メドウステーブルの専属調教師であるルシアンローリン師の元に入厩。厩務員が食べ物を与えると与えられただけ食べ続け、暇な時はポニーと戯れる怠惰だったが、一方で泰然自若とした気性の持ちであったと伝わる。しかしローリン師はの字のつく寡黙な人物で、怠惰なセクレタリアトをどのように鍛えたのかは今もって明らかになっていない。

2歳7月デビュー戦では1番人気に支持されたものの、スタートから中にかけて再三不利を受け、追い込み届かず勝ちから1身1/4差の4着に敗戦。しかし、11日後に出走した2戦を4身差で勝して初勝利を挙げると、続けて出走した一般競走では戦となるロン・ターコット騎手を背に1身半差で勝利した。

次戦のサンフォードSではLinda's Chiefに1番人気を奪われ、生涯一の2番人気に甘んじたが同に3身差をつけて快勝。更にホープフルSを5身差、ベルモントフューチュリティを1身3/4差で勝って連勝したが、シャンペンSでは直線でStop the Musicに衝突した際に進路妨を取られ降着となってしまった。

しかし次戦のローレルフューチュリティでは、降着の一件で思うところがあったのかターコット騎手が大外をぶん回し、ムチ一発も入れなかったにも関わらずStop the Musicに8身差をつけて圧勝し、ガーデンステートSも3身半差で楽勝。2歳シーズンを9戦7勝で終え、最優秀2歳のみならず年度代表馬も受賞した。

3歳初期

年明け々の1月3日、闘病に専念していたクリストファーが死去。相続税を捻出する必要が生じたため、19万ドル×32・総額608万ドル(当時の為替レートで約18億700万円)という巨額のシンジケートが組まれ、3日で売した。これは当時の世界最高額であり、体重で割ると1オンスあたりの値段が当時の純金のそれの3倍以上にもなるという凄まじい値段だったが、シンジケート導したクレイボーンファーム代表のセスハンコックは後に「盗んだも同然の安値」と言い切っており、当時からかなりの評価を受けていたことが伺える。

それはさておき、3歳初戦のベイショアSを進路を失う場面がありながら4身半差で突き抜けたセクレタリアトは、ゴーサムS(GII)でもレコードタイ勝利し連勝した。ところがケンタッキーダービーの前戦であるウッドメモリアルS(GI)にて、スロー逃げを打った同厩のAngle Lightから4身離された3着に敗退。ウッドメモリアルSは本にとって過去最長となる9ハロン戦であり、「口の腫れ物が敗因」という営の説明に納得が行かない人々によってスタミナ不足説が噴出した。これにはBold Rulerスピード種牡馬だったというだけでなく、同がこれまで10世代の産駒を出しながらも、三冠競走の勝ちは1頭も出せていなかったというのもあった。

三冠と不滅のレコード

半信半疑の中でケンタッキーダービーに向かったセクレタリアトは、それでも1番人気に支持された。2番人気ウッドメモリアルSで2着だったサンタアニタダービーの勝ちShamであった。口の腫れ物が治ったと思ったら膝の不安を発症し、他にも距離不安が顔を覗かせている状況ではあったが、それでもチャーチルダウンズ競馬場には13万4476人という歴史的大観衆が集った。

スタートが切られると、小回りコースにも関わらずターコット騎手は大胆にも最後方からの競馬を選択したが、徐々に徐々に位置取りを上げていき、直線入り口で2番手に付けるとそのままShamに2身半差をつけ勝。ラップタイムは2ハロン刻みで25.2-24.0-23.8-23.4-23.0と終始加速ラップで、勝ち時計Northern Dancerレコードを0.6更新する1分594現在でも1分59台で勝ったすら2001年Monarchos(1分5997)だけという、恐るべきタイムでの勝利であった。

続く2冠プリークネスSはセクレタリアトとSham以外のケンタッキーダービー組が3着Our Nativeを除いて全て回避し、別路線組も恐れをなしたのか回避が続出して僅か6頭立てとなった。ここではスタート直後だけ最後方を走りながらも、向こう正面入り口で々に先頭に立つという凄まじい競馬を演じ、Shamを再び2身半後方にちぎり捨てて勝。その勝ち方は「フォルクスワーゲン列にロールスロイスが混ざっているようなもの」とまで言われた。

ところが、ここで小さな問題が起きた。電掲示板に表示されたタイムは1分550だったのだが、競馬場側の計時担当者が「電掲示板は誤っている、自分が計った1分544が正しい」としたのだ。結局、電子計測器が故障していたということで公式な勝ち時計は1分544となったのだが、今度はデイリー・レーシングフォーが「うちで計ったら1分534だった」と言い出し、CBSテレビも「レコード(1971年Canoneroの1分540)が出たレースと並べて再生しても、明らかにセクレタリアトの方が速い」と追従したために論争に発展した。

結局ピムリコ競馬場は「1分544」ということで勝ち時計を確定させたのだが、デイリー・レーシングフォー非公式タイムの1分534を併記するなど、疑惑は残り続けた。そして2012年6月に入って改めてオーナーサイドメリーランド競馬委員会の協議が行われた結果、最新の計測によってプリークネスSの勝ち時計は当初の非公式記録をも上回る「1分530」というレコードであったことが明らかになった。

25年ぶり9頭三冠がかかるベルモントSの当週には既にニューウィーク誌、スポーツイラストレイテッド誌の表を飾り、レース2日後に発売されるタイム誌の表を飾ることも決定していたセクレタリアト。レースは5頭立てとなり、本の単勝オッズは1.1倍という断然の人気であった。レース当日の競馬中継の視聴率は実に52%叩き出したと伝わる。
レース前に「負けたら首をる」と言ったターコット騎手に対し、ローリン師は「セクレタリアトは史上最も偉大な。もし負けるようなことがあったら、競馬との繋がりを全に断つつもりだ」と言ったという。

そして、あまりにも有名なそのレースが幕を開けた。
前二冠連続2着のSham逃げようとしたところに出負けから巻き返したセクレタリアトが競りかけ、いつもはスタートから積極的に行くことはないセクレタリアトがShamと並んで先頭を引っる展開となる。逃げ続けるセクレタリアトが作り出したペースは半マイルが462という過酷なものとなり、並走してきたShamが6ハロン地点過ぎで々に脱落すると、後はセクレタリアトの独壇場。全く詰め寄られる気配すらないまま最終コーナーを回り、結局2着Twice a Prince31もの大差を付けて圧勝した。ちなみに彼がゴールした時にまだ他は残り100mほどの地点を走っているところであった。な ん だ そ れ

この時の勝ち時計2分240は従来の記録を2.6も縮めたばかりか、ダート12ハロン世界レコードをも塗り替えるものだった。セクレタリアト以外に24台を記録したは存在せず、25台すら稀(ベルモントS史上2位の勝ち時計Easy Goerの2分260)であるため、永久更新不可能とも言われる。

かくして、セクレタリアトは史上9頭三冠馬いた。勝ち時計は全てレースレコード、それも現在でも破られていない時計である。
ベルモントSの2日後に発売されたタイム誌では、先述の通り表を飾っただけでなく特集記事が組まれ、Man o'Warと同じ「Big Red」という異名も付いた。またウォーターゲート事件やベトナム戦争によって世の中が揺れていた時期だったこともあり、「大統領選挙に出ても当選するだろう」といったジョークも言われた。

3歳後半

セクレタリアトに対しては全各地の競馬場から出走依頼が殺到したのだが、種牡馬シンジケートの都合で3歳一杯での引退が決まっていた。それでも出来る限り要請に応えようということで、まずはシカゴのアーリントンパーク競馬場が12万5000ドルを投じて開催したアーリントン招待Sに出走。4頭立てで単勝1.05倍という圧倒的人気に推され、向こう正面でまくるとそのまま9身差で圧勝した。なお、このアーリントン招待Sは翌年以降もセクレタリアトSと改名された上で3歳限定の芝競走として現在まで施行されている(2022年現在の格付けはGII)。

続けてサラトガ競馬場でホイットニーS(GII)に出走したが、このレースではなんと重賞はおろかステークス競走すら勝っていないOnionという4歳逃げ切られて1身差の2着に敗退。初代ビッグレッドMan o'WarUpsetに敗れるなど「チャンピオン墓場」と呼ばれたサラトガ競馬場ジンクスに名を連ねてしまうこととなった。
もっともこの時は熱発と重度の下痢に悩まされていたらしく、それでも理に出走したことが最大の敗因と考えられている。

その後はベルモントパーク競馬場に赴き、マールボロカップ招待ハンデキャップに出走。これは同営で1歳上のケンタッキーダービーRiva Ridgeとの対戦を望むが大きくなっていたことから、両の対戦の舞台としてタバコメーカーフィリップモリス社が出資して新設された競走であった。
対戦相手はRiva Ridgeに加えて西海で大暴れしていたCougarや前年の最優秀3歳Key to the Mintなど実6頭だったが、セクレタリアトは直線でRiva Ridgeを置き去りにして抜け出し勝。勝ちタイムダート9ハロン世界レコードとなる1分454であった。

続けて出走したウッドワードS(GI)ではしく逃げたが、悪がてんでダメだったRiva Ridgeの代わりに9日後のマンノウォーSに出走予定だったセクレタリアトが急遽出走したという事情もあって調整が追いついていなかったのか、Prove Outに差されて4身半差の2着に終わった。改めて9日後のマンノウォーS(GI・芝12ハロン)に出走すると、芝GITentamやBig Spruceを相手に終始先頭を譲らないまま5身差でレコード勝ちを決め、非な実を見せた。

マンノウォーSの20日後、ローリン師とターコット騎手の出身であるカナダでのラストランを飾るため、ウッドバイ競馬場でカナディアインターナショナルチャンピオンシップS(GII・芝13ハロン)に出走。ターコット騎手騎乗停止により上はエディメイプル騎手に替わったが、全く問題なく向こう正面から先頭に立って6身半差で圧勝し、有終の美を飾った。

通算成績は21戦16勝。3歳時は2年連続でエクリプス賞年度代表馬に選ばれ、他に最優秀3歳・最優秀芝も受賞した。ベルモントSラストランとなったカナディアインターナショナルチャンピオンシップSの単勝馬券は換金せずに記念品として持ち帰った人も多かったという。

に一つだけ弱点があったとしたら、デビュー戦を取りこぼす原因となったスタートの悪さかもしれない。もっとも、いつもスタートをばっちり決めるようだとベルモントSスーパーレコードのようなレース日常茶飯事となったであろうし、出遅れ以外が原因で負けたであろうレースもある。神様ってのがいるなら、一応ちゃんとその辺は調整はしているのだろう。

種牡馬として

引退翌年である1974年々に殿堂入り種牡馬としても1978年の北2歳リーディングサイアーを獲得し、ながらとも互に戦いエクリプス賞年度代表馬いたLady's SecretベルモントSには及ばずとも凄まじい大差で圧勝したRisen Starを輩出するなど結構な好成績を残したが、圧倒的すぎた競争時代にべるとおとなしい成績に終わった。後継種牡馬アメリカの第一線からははじき出されてしまった。
しかし彼の本領は牝系に入ってこそだったようで、としてStorm CatA.P. Indy、Gone Westらを出し、後の競馬にも大きなを与えている。

1989年、蹄葉炎を発症。治療を受けたが四肢全てに発症するなど手遅れの状態で、安楽死処置が取られた。享年19歳。死後に遺体解剖され、心臓が通常のサラブレッドの2倍以上大きかった事が判明している。
遺体は余生を過ごしていたクレイボーンファームに埋葬されており、今でも墓参する人が絶えない。

1999年にはブラッドホース誌選定「20世紀のアメリカ名馬100選」でMan o'Warに次ぐ2位に選ばれ、セクレタリアトの肖像入りの記念切手も発売。アメリカスポーツチャンネル・ESPNが行った「20世紀アメリカの偉大なスポーツ選手100選」では35位にランクインした。2010年には、セクレタリアトと馬主のチェネリーの実話を基にした映画「セクレタリアト/奇跡サラブレッド」が開されている。

血統表

Bold Ruler
1954 黒鹿毛
Nasrullah
1940 鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Miss Disco
1944 鹿毛
Discovery Display
Ariadne
Outdone Pompey
Sweep Out
Sometingroyal
1952 鹿毛
FNo.2-s
Princequillo
1940 鹿毛
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Imperatrice
1938 黒鹿毛
Caruso Polymelian
Sweet Music
Cinquepace Brown Bud
Assignation
競走馬の4代血統表

クロス:5代内アウトブリード

主な産駒

1975年産

1976年産

1982年産

1985年産

1986年産

1988年産

1989年産

1990年産

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