レドゥイット・プランとは第二次世界大戦中にスイスがナチドイツの侵攻に備えて企図していた軍事作戦である。レドゥイットとは「山上の砦」という意味。
概要
1939年9月にナチスがポーランドを攻撃し第二次世界大戦が勃発した。スイスは第一次世界大戦を中立宣言で乗り切っていたため此度の戦火も中立宣言でやり過ごせると考えていた。スイスは中立を確実にするために大戦開始同日に総動員法を出し、42万のスイス人が兵役についた。しかしスイス人がヒトラーの野望の大きさに気づくには時間がかからなかった。翌年にフランスが陥落するとスイスは北にドイツ、東にオーストリア、南にイタリア、西にヴィシーフランスと枢軸国に完全に包囲されてしまった。スイスはパニックに陥り、事実ヒトラーはスイス侵攻オペレーション・タンネンバウム(もみの木作戦)を立案していた。
スイス大統領のピレ・ゴラは1940年6月に「スイスの伝統的中立を維持すべきであるが、変化に応じる必要もある」としてドイツへの屈服を示唆した。だがアンリ・ギザン将軍は軍人として徹底抗戦を訴えた。このギザンが考案した対独国防作戦がレドゥイット・プランである。レドゥイット・プランとは簡単に言ってしまえスイスの全兵力をアルプス山脈に集中させ、中世の山城の如く籠城する作戦のことである。峻険な山岳地帯ではドイツの機甲部隊も航空部隊も効果的な攻撃ができない。またスイスは陥落確実になればザンクト・ゴットハルトとシンプロンの二大トンネルを爆破するとヒトラーに通達した。重要なインフラを破壊されてはドイツとイタリア間でスムーズな兵站が叶わなくなってしまう。
稀代の軍事作戦レドゥイット・プランは、スイスの平野部を完全に放棄することが前提になっている。平野部の重要企業は全てナチスに接収され、兵士たちの家族も支配下に置かれてしまう。こんなことで兵士たちはまともに戦えるのかと不安視された。また山岳地帯での食料の確保も難題とされた。結局ヒトラーは種々の政治的要素からスイス攻撃を回避した。労ばかり多く益が少ないスイス攻撃に精を出すよりより手強いイギリスを先に叩くことを優先したのである。ギザン将軍とスイス人の覚悟がヒトラーに作戦変更を為したのであった。
スイスはその後も中立を保ちながらも枢軸国と連合国の両方に軍事物資を輸出し続け、武器製造会社は大きな儲けを得ることができた。また亡命者を大量に受け入れ彼らの命を救った一方でユダヤ人亡命者を拒否し見殺しにしている(この時に、ビザを偽造して数百人のユダヤ人を救ったパウル・ギュルニンガーという有徳人もいた)。更にナチスがユダヤ人や占領地から奪った財産や金塊はスイスの銀行に預けられていたため戦後スイスは国際社会から非難されることとなった。中立というのはなかなか難しいものである。
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