下山定則(1901年7月23日~1949年7月6日?)とは、初代日本国有鉄道総裁である。その死には不明な点が多い。
概要
兵庫県出身。父親の職業の関係もあって、少年時代は転校を繰り返していた。1925年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、当時の鉄道省へ入省。規格院技師、技術員第4部長、鉄道総局業務局長補佐を歴任。後に新幹線プロジェクトのリーダーとなる島秀雄とは学生時代からの親友でもある。
終戦後、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長を歴任。局長在任中、男の大事な物が破裂するほどの暴行を受けた。1948年6月、発足したばかりの日本国有鉄道総裁へ就任。しかし同年7月5日、三越日本橋本店に入ったのを最後に消息を絶ち、6日未明に東京都足立区の国鉄常磐線と東武伊勢崎線が交差する付近で轢死体となって発見された。48歳の若さであった。この事件は「下山事件」と呼ばれ、「松川事件」「三鷹事件」と共に国鉄三大ミステリー事件の一つになっている。
下山事件
事件のあらましは先述の通り。この事件については他殺説と自殺説の2つの説が今も唱えられている。
他殺説はアメリカ陸軍防諜部隊が関与したというもの、元陸軍軍属と亜細亜産業関係者が関与したというものが唱えられている。轢断死体の断面やその近辺に血痕が残っておらず、既に死んでいた状態で列車に轢かれたというのが考えられたから。
自殺説は「GHQから国鉄の職員を大勢解雇せよと迫られて弱っている」と本人が語っていた、事件前日には多くの人と面会したり面会を要請し、面会した相手には「脅迫や嘆願が自宅にまで来る」とこぼして涙ぐむなどの証言から。
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