- プロ野球選手一覧 > 国枝利通
国枝利通(くにえだ としみち)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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国枝利通 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県岐阜市 |
生年月日 | 1920年6月23日 |
没年月日 | 2011年3月8日 |
身長 体重 |
170cm 64kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1948年 |
引退 | 1954年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
岐阜商業学校に進学。1学年下には大島信雄がいた。チームの主力として活躍し、甲子園大会には3度出場し、1938年の夏の甲子園大会では準優勝を、1940年の春の甲子園大会では優勝を経験している。
卒業後、明治大学を経て、大日本土木に入社。1946年・1947年と2年連続で都市対抗野球大会で優勝している。
初年度の1948年、2番サードとしてレギュラーに定着すると、原田徳光(原田督三)との1・2番コンビとして活躍。ただ、シーズン終盤に頭部に死球を受けて生死の境をさまよい、復帰後は失速。最終的には、打率.233、4本塁打、31打点、36盗塁を記録。
1949年、頭部死球の影響でベースから離れた位置で打席に立つようになったが、逆にこれを生かして右打ちを極め復活。打率.297、1本塁打、22打点、17盗塁を記録。
1950年からはセカンドメインで起用され、以降も俊足巧打のセカンドとして活躍。1950年~1952年にかけて3年連続で30盗塁以上を記録し、1952年にはセ・リーグ8位の打率.303と高打率を記録。また、1952年はリーグ最多の24犠打も記録している。
1954年、頭部死球の後遺症により不調に陥ったことに加えて井上登の台頭もあり、出場機会が激減。同年限りで現役を引退。
引退後は解説者を経て、中日の球団職員を務めた後、ナゴヤ球場とナゴヤドームの代表取締役に就任。
人物・エピソード
俊足巧打のセカンドとして活躍した内野手。守備面でも、千葉茂の守備を参考にして技術を盗み、鉄壁の守りを見せていた。
メガネ姿がトレードマーク。また、東海テレビ専属の解説者第1号の人物でもある。
通算成績
打撃成績
通算:7年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 701 | 2645 | 2322 | 318 | 633 | 10 | 201 | 192 | 77 | 0 | 239 | 7 | 155 | 24 | .273 | .342 |
関連項目
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