- プロ野球選手一覧 > 大島信雄
大島信雄(おおしま のぶお)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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大島信雄 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県一宮市 |
生年月日 | 1921年10月2日 |
没年月日 | 2005年1月8日 |
身長 体重 |
173cm 64kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
引退 | 1955年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
県立岐阜商業学校に進学。エースとして活躍し、1938年の夏の甲子園大海では準優勝、1939年には甲子園大会春夏連続で準優勝、1940年の春の甲子園大会では優勝を経験するなど、全国屈指の好投手として名を馳せた。
卒業後、慶應義塾大学に進学。ここでも中心選手として活躍したが、戦争激化に伴い、野球部が活動休止に追い込まれることとなった。『最後の早慶戦』と呼ばれた出陣学徒壮行試合にも出場している。戦争終結後に復学し、2度のリーグ優勝を経験している。
大学卒業後、大塚産業に入社。都市対抗野球大会に2度出場を果たしている。
初年度の1950年、エースの真田重男や江田貢一(江田孝)に次ぐ主力投手として活躍し、20勝4敗、防御率2.03、勝率.833を記録し、松竹のセ・リーグ制覇に貢献。最優秀防御率・最高勝率のタイトルを獲得し、新人王にも選ばれた。
1951年、前年同様主力として活躍し、15勝13敗、防御率2.74とまずまずの成績を残した。ただ、シーズン終了後、松竹の親会社である田村駒の経営悪化に伴い主力選手たちを大量に放出。大島も退団することとなり、名古屋ドラゴンズへ移籍することとなった。
名古屋移籍後も主力として活躍。1952年は12勝11敗、防御率2.82、1953年は12勝9敗、防御率3.83を記録し、4年連続で2桁勝利を達成。
1855年、わずか2試合の登板に終わり、同年限りで現役を引退。
引退後は解説者・評論家として活動した後、古巣の中日で投手コーチを務め、松本幸行らを育成した。
人物・エピソード
投球術に長け、速球や縦に割れるようなカーブを武器に活躍した左腕。
野球に対する情熱は80歳を迎えても衰えなかったようであり、メジャーでプレーするイチローの姿を見たいと、シアトルへ渡った事があるという。
通算成績
投手成績
通算:6年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 162 | 41 | 14 | 64 | 41 | --- | --- | .610 | 884.1 | 263 | 273 | 360 | 277 | 2.82 |
獲得タイトル・表彰・記録
関連項目
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