概要
室町幕府の幕臣で、後期幕府を象徴する知識人。なお、日本史で名前が残っている人物の中では唯一15世紀から17世紀まで生き続けた長命の存在でもある。ちなみに諱の完は『室町幕府申次覚書写』にて「ミツ」と振られている。
ここまでのあらすじ
大和氏は代々奉公衆を務め、子孫が毛利輝元に仕えて以降、長州藩に記録が残っている。彼らの言うところには、平維盛の子孫で、秀政の代に足利尊氏の岳父となり大和守を称したことからこの苗字となったらしいが、史実からは確認できない。しかし、15世紀には伊勢氏も大和氏をこのように認識しており、それ以前の足利義持も公認した設定であったようだ。このことから「御父」とは血縁ではなく足利義昭が織田信長に対して行ったような、何らかの紐帯があったことを反映したのではないか、とも言われている。
奉公衆としては全一族が四番におり、将軍の近習としてあちこちで名前を見かけていく。佐渡守家が日野富子に仕えていく一方で、三重家や坂田家なども分流していく。しかし、大和晴完につながる大和道政の系統はいまいち事績がよくわからず、祖父の大和元継から奉公衆の番帳で見かけるようになり、大和元網、大和晴完と続いていく。
幕臣・大和晴完
『言経卿記』に慶長9年(1604年)1月11日に106歳で死んだとあるので、おそらく明応8年(1499年)の生まれ(なお、没年は子孫すら徐々にあやふやになっている)。当初は大和晴通を名乗っており、天文14年(1545年)までに今の名前になった。官途は刑部少輔→宮内少輔で、子孫の伝える大和守は実際はよくわからない。兄弟に金蔵坊、大和小三郎らがいる。なお、息子は3人いたようだが、兄を継いだ金蔵院、大和秀国(妻は武田信豊の娘)しかわからない。また、まったく系譜関係のわからない大和孝宗が彼の息子かもしれない。
大和晴完の系統の大和氏は全く政治活動に携わってきていなかったが、惣領家はすでに没落しており、佐渡守家も関東に行っていたので、彼の地位が上昇していく。その初見は細川晴元邸への御成の際の走衆としてで、『言継卿記』天文13年(1544年)10月9日の条に御部屋衆となっていることが確認でき、さらに翌年には申次衆までに至っている。
こうした地位の上昇を受け、必要に迫られて故実を収集していった結果、後世大量に故実書が残る結果となった。しかし、天文22年(1553年)の足利義輝没落に同行せず、在京を続けたため諸々を剥奪される(官途の変更もおそらくここ)。しかし、足利義輝が帰京すると復帰し、この頃に御供衆にもなっている。以後、永禄の変まで仕えていった。
永禄の変の後は足利義栄に仕えず、在京して何らかの活動を続けていく。しかし、すでに高齢だった彼は申次も大和孝宗に譲って完全に引退しており、足利義昭期の活動もあまり定かではない。以後は医者になったようで、『言経卿記』の天正14年(1586年)7月1日条によると、豊臣秀吉の愛妾を治療して従三位になったようだ。この中で本人が下向してまで就職活動を斡旋した、息子・大和秀国の毛利家への仕官に成功する。そして、大往生を遂げることとなった。
前述の通り故実を自分なりにまとめ、『宗五大草紙』を自分なりに現代版として編纂した『条々聞書』などが残されている。大和家に関する文書も散逸したものが中古市場に流れているため、まだ全貌がわかっていない。
関連項目
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