大鳥圭介単語

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大鳥圭介1833~1911)とは、幕末に活躍した幕臣、明治時代に活躍した政治家である。

概要

新規旗本。戊辰戦争における旧幕府軍の代表的な人物で、陸軍を率いた。実戦下手だったが、楽天と伝わる。諱は純。号は如

播磨の出身で、小林息子岡山の閑学校学、次いで大坂緒方塾・適々斎塾に蘭学、安政元年(1854年)に江戸に出て江川英敏に西洋砲術を学ぶ。

元治2年(1865年)に幕臣に取り立てられ、富士見御宝蔵番格歩兵差図役謹方となり、慶応3年(1867年)に歩兵差図役頭取、歩兵頭並、慶応4年(1868年)に歩兵頭、歩兵奉行とどんどん出世をしていく。

ついに江戸無血開城の際鴻之台に脱出し、集結していた旧幕陸軍の総督に任命。日光に向けて進軍。武井小山を転戦し、宇都宮に入るが敗退。会津に入り会津兵と今攻撃や日光口での会津南方防衛を行った。いったんはに出するも敗走して仙台に転じ、榎本武揚の旧幕海軍と合流。かくして夷地にわたる。大鳥圭介の率いる陸軍五稜郭をはじめ夷地を定すると、政府立の際に大鳥圭介も陸軍奉行に選出された。

しかし、明治2年(1869年)に新政府松前を突破すると、伝習士官隊、額兵隊を率いてこれを撃退。五稜郭にいったん帰営したのち、木古内敗走の方を受けると矢不来の防衛線を揮するが艦砲射撃の前に敗退。館総攻撃の際には五稜郭戦闘した。

の後、榎本武揚らと投されるも、明治5年(1872年)に赦免。新政府に出仕し、開拓使など重職を歴任した。明治8年(1875年)には戊辰戦争の幕府側戦死者を慰霊する、函館地頭血碑の建立にも尽している。

最終的には明治22年(1889年)に駐清国特命全権使、明治26年(1893年)には朝鮮使を任命されて、両者を兼任し、李氏朝鮮明治27年(1894年)甲午農民戦争(東学党の乱)がおこると、政府の訓によって清国軍の撤兵などを李氏朝鮮に要日清戦争の端緒を作ることとなった。

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