水清ければ大魚なしとは、故事成語のひとつである。
概要
昔の中国のお話です。
「後漢」の西域統治機関の長である「班超」は、年齢70を数え
「生きてもう一度都の土を踏みたい」と願い、ようやく帰国を許されました。
後任の「任尚」と会った班超は任尚に西域を統治するコツを聞かれたのでこう答えた。
「水清ければ大魚なし。西域の統治もそれと同じようなことだ。」と。しかし、任尚は
「あの人が言うことだからいい策かと思ったが、期待はずれで平凡すぎた答えだった。」
と班超の策を用いなかった。
結局任尚は西域の平和を維持することができなかったという。
これが元で清廉潔白が過ぎると、かえって人が親しまないという意味で用いられるようになった。
ちなみに日本史で語られている「寛政の改革」について、以下の様な狂歌がある。
「白河の 清きに魚も 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき」
編集者的にはこの狂歌はこの故事成語に通ずるものではないのだろうかと思う。
大百科的解釈
大百科的に言うのであれば、「水が清い」というのは「真面目記述一辺倒」「感情を一切挟まない」と言い換えることができる。清廉潔白な記事とはネタ記述を一切許さないものとなり、まさにWikipediaが求めているような記事といえる。
しかし、一切のユーモアを交えずに記事を書いても、それは既存のWikipediaなどには敵わないことは明らかである。そのため、ニコニコ大百科ではWikipediaとの差別化を図ってユーモアなどを交えた記事の執筆が認められ、ユーザ間で推奨されている。また、Wikipediaなどでは許されていない独自研究を載せることも許されている。
これらのネタ記事や独自研究記事はそのクオリティが確かであれば大いに評価されることが多い。人によっては「ネタの記述その他を許容できるのはWikipediaよりもニコニコ大百科が優れている点」というものもいる。多少のネタ=汚れを許容することにより、ニコニコ大百科はニコニコ大百科の独自性を保持することができている。その意味で、ニコニコ大百科は多少汚れているからこそニコニコ大百科であるといえる。
その一方で、時にニコニコ大百科の記事は暴走することがある。特に何かしら話題となった単語・事件・人物などの記事では水が汚いが故に大量の魚がえさを求めて流入してくる事態が発生する。そのような記事を清い状態に戻そうとした人が現れた場合、大規模な議論などが発生する。人間は道理だけで動いているわけではないため、誰かが正しい(と思われる)ことを言ったとしてもそれがすぐに万人に受け入れられるとは限らないのである。
ニコニコ大百科に参加している人間全てが聖人君子でいられるわけがない。誰でも何かしらの汚れは持ち合わせている。それら汚れを持った不特定多数の人間が参加している以上、どうしたって多少の齟齬や衝突は発生し、水は汚れる。そのことを踏まえたうえで清濁併せ呑めればニコニコ大百科をより楽しく過ごせるのではないだろうか。
関連項目
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