匈奴とは前4世紀以降、主にモンゴル平原に現れた北方民族である。
歴史
中国史を語る上で、北方に住む遊牧民族の存在は避けては通れない。そんな遊牧民が中国の歴史上に初めて出てきたのが、この匈奴である。これ以前にも中国の北方には異民族が存在していたが、純粋な騎馬遊牧民は匈奴が初めてであった。 匈奴は幾度となく中国に侵入して略奪を繰り返し、農耕民族国家は時に和親し、時に全面戦争に突入して匈奴と争った。
匈奴の出自は定かではないが、一説には西からモンゴル平原にやってきたアーリア人(スキタイ)とも言われている。匈奴が初めて資料に現れるのは、中国の戦国時代の真っ只中の前三一八年であった。匈奴は、韓、魏、趙、燕、斉の五カ国と連合し、秦を攻撃したとされる。
匈奴の勃興
匈奴が歴史に現れた当初から、北方民族と中原の農耕民族は争いを続けていた。北方には匈奴の他に、甘粛の義渠族、東北地方には東胡族などの他の異民族も存在し、匈奴とも対立状態にあった。戦国七雄のうち北に国境を持つ秦、趙、燕の国々は土塁を築き、それら異民族の侵入を防ごうとした。
匈奴の騎馬隊は、戦車と歩兵のユニットを密集的に用いる戦術をとっていた中国に強い衝撃を与えた。歩兵・戦車兵と騎兵では進むも引くも軍隊のスピードと柔軟性がまるで違い、戦場においては圧倒的なアドバンテージを得られるのである。趙の武霊王は、遊牧民の騎馬軍隊を模倣した騎兵隊を編隊(胡服騎射)し、多くの武功をあげることに成功したというエピソードもある。
前二二一年に秦の始皇帝が中国を史上初めて統一し、戦国時代を終わらせた頃、匈奴では頭曼単于が現れ、それまでバラバラであった匈奴諸部族を統一していた。単于とは正式には撐犂孤塗単于(とうりことぜんう)と言い、中国で言うところの皇帝の意味である。始皇帝はある仙人の「秦を亡ぼすは胡(匈奴)なり」という予言を信じ、将軍の蒙恬に三〇万の兵を与えて北の匈奴に当たらせた(結果からすると秦を滅ぼしたのは胡人(匈奴)ではなく、宦官に操られた始皇帝の末子の胡亥であった)。始皇帝は匈奴の侵入を防ぐ為に北の大地にあった土塁の拡張、補強工事を行った。これがかの万里の長城である。ただし現在見ることの出来る万里の長城は明朝時代に作られたものであり、当時の長城は匈奴の馬が乗り越えられない程度の土塁であったとされている。長城は国土防衛のために必要なインフラではあったのだが、城の建設や、そこに置かれた屯田兵の負担により、秦への不満は高まっていった。そのため人民や将軍が匈奴へ投降するという例も多く、中国から北方への逃亡者を減らすという役割も長城は担っていた。
前二一〇年、始皇帝が死ぬと中国は再び戦乱の世に戻っていく。悪宦官の趙高が政治を牛耳り、匈奴を押さえていた蒙恬と始皇帝の長子、扶蘇は謀殺されてしまう。陳勝・呉広の乱をきっかけに項羽と劉邦の楚漢戦争が始まり中央は混乱した。この機に乗じた頭曼は容易にオルドス地方を奪還することが出来た。そしてまた匈奴に一人の英雄が誕生する。頭曼の長子、冒頓である。
匈奴の全盛期、冒頓単于の登場
冒頓は単于の長子として生まれながら、愛妾の子を跡継ぎにしたかった父の頭曼に疎まれ、当時西にあった匈奴のライバルの月氏に人質として送られてしまった。頭曼が月氏を攻めた際に、冒頓は月氏に殺されそうになったが、馬を奪って逃げ出すことに成功した。これには頭曼も冒頓を認めざるを得ず、一万の兵隊を冒頓に与えたが、冒頓の父への不信は高まっていった。
その後、冒頓はクーデターを起こし、頭曼とそれに連なる閼氏(匈奴における妻の意)、弟、大臣を誅殺し、冒頓単于として匈奴のトップにたった。時に前二〇九年のことであった。冒頓が頭曼を倒す時のエピソードや東胡を討った時のエピソードも有名である。 詳しくは冒頓単于の記事で。
東胡を討った後、冒頓単于は西方の月氏も敗走させ、漢の領土にまで侵攻を開始した。ここに匈奴の全盛期が始まった。
前二〇二年には劉邦が垓下の戦いで項羽を破り、漢王朝を建て皇帝として即位した。劉邦は匈奴に備えるために、韓王信(韓信とは別人)を匈奴との国境に接する馬邑の地に送った。韓王信は匈奴の恐ろしさをよく知っていたために、匈奴との宥和政策を進めたのだが、これが劉邦の目には裏切りと映り、劉邦の不信を招く事になった。これを受けて韓王信はとうとう匈奴に下ってしまい、匈奴と漢王朝の関係は予断を許さない状況に陥った。
前二〇二年、匈奴は韓王信の兵と合わせて四〇万の兵を進め、劉邦は自らこれを迎え撃ったが、白登山で完全に包囲され七日間飲まず食わずの苦しみを味わった。これが世に言う平城の恥である。劉邦は冒頓単于の閼氏に賄賂を送り、この包囲の一角を解かせることによって脱出することに成功した。匈奴に辛酸を舐めさせられた劉邦は、匈奴とは和平を結ぶことを決定する。
その条件は
というものであった。中華思想の下、全世界の上に起つ皇帝にとって匈奴との対等な付き合いは屈辱以外の何ものでもなかった。
劉邦の死後も匈奴との屈辱外交は続き、有名なエピソードとしては呂后政権時代に、冒頓が「自分(冒頓)も高后(呂太后)も独身なのだから、一緒にならないか?」などと無礼極まりないセクハラ親書を送って呂后を激怒させたり、冒頓の次の老上稽粥(ろうじょうけいいく)単于の代には、漢は匈奴に送る国書に一尺一寸の木簡を用いたのに対して、匈奴は一尺二寸の木簡を用いて、匈奴が漢の上にあることを示した。(これは、本来木簡は一尺のものを使うのに対して漢王朝が権威を示す為にそれより少し長い一尺一寸のものを用いることを逆用している)。
漢王朝の匈奴への服属関係は劉邦、呂后、文帝、景帝と受け継がれた。その関係が変わるのは七代皇帝、武帝の時代である。
匈漢戦争の始まり、武帝の登場
武帝は十五歳の若さで即位した直後から、匈奴との屈辱的関係に我慢できずこれを撃破することを考えていた。その背景には、匈奴と和平条約を結んでいるにも関わらず略奪が止まなかったこと。また武帝の前の二代の時代に朝廷の財政が潤っており戦費の捻出が容易であったことがある。
まず武帝は、匈奴に討たれ西へ逃亡した大月氏と軍事同盟を敷くために張騫を派遣した。当時無名であった張騫は前一三九年に長安を出発し、西方に向かったのであるがすぐに匈奴に捕まり尋問を受けた。張騫の目的を知った、時の単于であった軍臣単于は
「月氏の国は匈奴の北にある。今どうして漢の使者を月氏に行かせられようか。それでは挟撃してくださいというようなものだ。もし私が漢の南の越の国に使者を送ったら漢はどうして許すだろうか」
と言って、張騫は以後十年以上も拘留されてしまった。張騫には妻も与えられ、子も儲けたが武帝から与えられた使命を忘れることはせず、監視が緩んだ隙をついて匈奴を脱出した。数百人で出発した張騫一行は漢に戻った時にはわずか数名にまで減っていた。長い時を経てようやく西域に達した張騫であったが、目的の月氏は大夏(バクトリア、現在のアフガニスタン北部)を征服し、安住の地を得ていて匈奴への恨みはすっかり忘れていた。張騫は大月氏との同盟を果たせず、空しく西域を出立した。この時生まれた故事成語が「要領を得ない」という言葉である。同盟自体は失敗したものの、西域の情報を多く持ち帰った張騫の功績は大きく、張騫は武帝に多くの報償を与えられた。
一方、張騫を派遣した後も武帝は手を拱いていた訳ではなかった。武帝の即位当初、漢と匈奴の間に物々交換を行う市が開かれていた。そこでその市の商品と馬邑城を囮にして、武帝は待ち伏せ作戦を決行した。馬邑を攻めるために一〇万を率いてやってきた軍臣単于であるが、平原に人影が全く見えないことを不信に思い、人をやらせて調べさせた所、待ち伏せが行われていることを知り、全軍を引き返させた。馬邑事件は間違いなく漢の宣戦布告であり、長く保たれていた和平関係から全面戦争に突入することを意味していた。
その後、漢側に衛青や霍去病などの優秀な将軍が誕生したことにより、情勢は漢に傾いていった。好戦的な伊稚斜単于が死ぬと、その跡を継いだ烏維単于は匈奴を北に撤退させた。匈奴が北に移ったことによって漢と西域との間に安定した道が開かれるようになった。武帝は烏孫に張騫を送り、また大宛、康居(キルギス・カザーフ草原の遊牧民)、大月氏、大夏、安息(パルティア)、身毒(インド)にも使者を派遣した。これが後世シルクロードと呼ばれる交易路である。中央アジアを通った交易路自体は以前から存在していたが、この時をもって道は中国に強く認識されるようになった。
シルクロードを通って西域からはブドウや琵琶など珍しいものが沢山入ってきたのだが、 その中でも特に武帝の食指を動かしたのは汗血馬と言われる、西方の優れた馬であった。上述した通り、優れた馬は軍事的に重い意味をもっていたからである。武帝はすぐさま大宛に馬を求めたが大宛王はこれを拒否した。武帝は怒って将軍の李広利に兵を預けるも、兵站が行き届かず失敗に終わる。しかし、この時に示した漢の武威によって西域諸国はこぞって漢に朝貢をするようにもなった。
分裂
霍去病の死後は漢の武将の李陵や李広利が匈奴に投降するなど匈奴が盛り返し、武帝の死後は戦争は均衡状態に入った。しかし前六十年に日逐王が漢に下った事によって再び漢が勢いを強めた。日逐王は名を先賢撣(せんけんたん)といい、狐鹿姑単于(ごろくこぜんう)の甥であった。彼は早くから次期単于の呼び声が高かったのだが、虚閭権渠単于(ころごんごぜんう)の死後、彼と不仲であった握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう)が即位すると、配下の部下数万と共に漢に投降してしまったのである。日逐王は西域の要を押さえていたため漢は一切の血を流す事なく西域を得る事が出来たのだった。
匈奴の弱体化をみた東方の烏桓は、隣接する匈奴の東の姑夕王(こせきおう)へ攻撃を開始した。この攻撃によって大きな被害を出してしまった姑夕王は単于の怒りを恐れ、東部の有力者と画策して呼韓邪単于(こかんやぜんう)をたてて独立してしまった。両者の対立は握衍朐鞮単于が自殺したことによって呼韓邪単于の勝利に終わったかのように見えたのだが、握衍朐鞮単于の側近であった都隆奇が屠嗜単于(ずぎぜんう)をたてて、呼韓邪単于を攻撃した。この他に呼掲単于(こけちぜんう)、烏籍単于(うじゃくぜんう)、車犁単于(しゃらいぜんう)も現れ、匈奴は五単于が並び立つ事態に陥った。
五単于並立状態も長くは続かず、やがて呼韓邪単于によって統合されてはいったが、やがて呼韓邪にとって新たに強力なライバルも現れた。左賢王である呼韓邪の兄、呼屠吾斯(ことごし)である。呼屠吾斯は自立して郅支単于(しつしぜんう)と名乗り、呼韓邪単于と対立した。兄との戦いに破れた呼韓邪単于は前五一年、漢に援助を求めるべく宣帝に謁見した。ここに百六十年以上続いた漢と匈奴の戦争は一旦終止符が打たれた。呼韓邪は客臣として特別待遇され、多くの宝物と後宮の婦人も送られた。この呼韓邪に下賜されたのが中国四大美人の一人に数えられる王昭君である。郅支も漢との外交に臨んではいたのだが、彼が求めたのが対等な付き合いであり、その点で外交争いには遅れをとってしまった。郅支はその後、西方攻略に専念し、以後、西匈奴と呼ばれるようになった。これに対して呼韓邪は東匈奴と呼ばれる。東西匈奴の対立は前三六年に郅支が戦死するまで続けられることになる。
その後、東匈奴は代々単于が入朝することによって恭順の意を示していた。これにより匈奴の独立性は徐々に失われていく事になる。しかし王莽によって前漢が滅ぶと、この関係は一変する。王莽は匈奴に対して強い圧力をかけ、これに反発した匈奴は再度中原への侵略を開始した。王莽は二〇万の兵を出してこれを攻撃したが、効果は薄く逆に王莽の新政権の寿命を縮める結果になった。王莽による高圧的な政策は匈奴のみならず、全ての周辺異民族に及んでおり、烏桓や鮮卑も中国から離反して匈奴の軍門に下った。西域諸国も匈奴に貢ぎ物を送っていたので匈奴の経済は潤った。後二三年に王莽が死ぬと、匈奴の勢力がますます強大化し、呼都而尸道皐若鞮単于(ことじしとうこうじゃうくていぜんう)の時に極盛に達する。中国では新王朝後の覇権戦争が起きており、匈奴は劉秀(後の光武帝)の対抗勢力に援助したりして、戦争に介入した。
しかしその後、後漢が成立すると匈奴は勢力争いや自然災害などで国内は疲弊の極みに至った。東方の烏桓は匈奴に対する積年の恨みを晴らすべく、匈奴に攻撃を開始する。単于の後継者争いにより四八年には内モンゴルと華北の一部に居を構える南匈奴と外モンゴルに覇を称える北匈奴に分裂してしまった。南匈奴の単于比は北匈奴との戦いで多くの勝利を修め、五十年には自分の子を漢に納めて服属の意を示した。これは前漢との関係とは違い、漢への従属度は高いものであった。1世紀の末には北匈奴は鮮卑に侵略され、西へと本拠地を動かし、以後史料の中からは消えていった。4世紀に欧州に猛威をふるったフン族はこの北匈奴の末裔という説もある。
南匈奴は覇権戦争に勝利したものの、北匈奴から投降してきた人民と従来の人民との間に軋轢が生まれ、三国時代には魏の曹操によって五部に分割された。その後、西晋時代に司馬氏が八王の乱の際に匈奴をはじめとした異民族を傭兵として用いたために、異民族の中原での影響力は高まった。続く五胡十六国時代には匈奴は前趙、夏、北涼などの国を建て、漢民族と同化していった。
中国への侵入
匈奴が中国に侵入し続けた理由にはいくつかの要因がある
いずれにせよ匈奴の経済・生活は中国に依存しており、侵入・略奪は不可避のものであった。
文化
匈奴は、煌びやかな中国文化と対比され、原始的な生活を営む蛮族のイメージが強かったが、現在では中国とはまた違った一つの文明を持った民族として捉える向きが強い。
史記の匈奴伝によれば匈奴の経済的基盤は基本的に遊牧にあり、その上で時に狩猟を行って生活の糧を得ていた。家畜の代表的なものは馬、牛、羊であり、特殊な家畜としてはラクダ、ラバ、ロバなどがあげられる。遊牧生活では移動の主導権は家畜側にあり、遊牧民は家畜を飼っているというより共生の関係にあった。狩猟は経済的には遊牧の補助的なものであるが、それ以上に戦闘訓練としての意味が強いと考えられている。
以上に加えて、冒頓の時代以降には一部ではあるが穀物の育成も行われていた。最初は家畜のエサとしての農業であったが、徐々に匈奴の人間も穀食をするようになっていったとされる。商業も盛んで、万里の長城の付近では市が開かれ、匈奴は遊牧生活では手に入れられない商品を手に入れ、また西方に運んで利益を得ていたり、その逆に西方の物を漢に持ち込んだりもしていた。
衣食住
匈奴は漢人と違いズボンを着用していた。これはズボンを履いていないとまともに騎乗できたものではないからである。
匈奴の主な飲食物は、畜肉と各種の乳製品であった。肉は羊肉が主で、時に牛肉も食したが鶏肉は余り食べなかったようである。遊牧の移動生活には鶏の飼育は適さず、せいぜい狩猟で得られた鳥類を食す程度であった。肉類と並んで彼らが好んだのは酪、酥(そ)、そして馬乳酒であった。酪とは酸や酵母などをもって乳を凝結させた固形の乳製品である。食するのに用いる必要がなかったので匈奴の移動生活には重宝された。酪を矩形(長方形)や球型に整え、乾燥させたものが酥である。これは粉末にして湯で溶かして飲用する。酸味が強く、乾きを癒すのに効果があり、夏に多く飲用された。手編に同、馬酒とも言われる馬乳酒は、皮袋にいれた馬乳を棍棒のようなもので打ったりかき混ぜたりして製される。この作業には長い時間を要し、根気が必要とされるが、馬乳は酸味を帯びて酒に変わる。古いものはアルコール度数が四六%を超え、モンゴリアの遊牧民の間で広く好まれている。この馬乳酒には毒を消し、渇きをとめ、解熱の効果があるとして珍重され、また漢人の上流階級にも好まれていた。この他に穀物や西方より得たブドウ、キュウリなども食していた。
匈奴は車と家が合体した移動住居で暮らしていたとされる。しかし匈奴後期に漢化して定住生活を営み始めると、車と住居が分離したものも現れていく
その他の文化
匈奴の生活は基本的に全て戦争を念頭において行われる。そのためか史記によると匈奴の部族内では年長の男子、特に壮年の男子の権利が強く、一方で老人は無力として粗末にされていたようだ。これはいざ戦争となれば強い男子が戦場に向かい、彼らが負ければ老人も殺されてしまうためである。ただしこれは年功序列の儒教観念が強い漢民族が匈奴を蔑視するために誇張しているという指摘もある。
老人が軽んじられる反面、女性の権利は強かった。これは女性の背景には彼女を生んだ部族の影響があり、彼女を蔑ろにした場合その部族から報復を受けるからである。また女性が未亡人になった場合、夫の息子や弟がその妻を娶るという嫂婚性という独特の風習も匈奴は持っていた(この風習は中国人からしたら近親姦に他ならず禽獣の行為と忌避された)。以上のことから、匈奴における結婚は部族単位で行われていたことが窺える。
葬礼に関しては葬送の時に顔面に刀傷をつけて死者の額に血を流すリ面、霊魂が宿るといわれる頭髪の一部を死者に捧げる剪髪、あと殉死の風習が知られている。匈奴の法律は極めて簡潔で、文字の文化も一部の記号のようなものを除き存在しなかったとされる。
関連項目
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