- プロ野球選手一覧 > 江田孝
概要
OB | |
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江田孝 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県玖珂郡 |
生年月日 | 1923年3月18日 |
没年月日 | 1978年2月11日 |
身長 体重 |
174cm 64kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1941年 |
引退 | 1957年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
初年度の1941年には9試合に登板。8月の名古屋軍戦では、7回1/3を投げて相手打線をノーヒットに抑え、後を受けた森弘太郎も1回2/3をノーヒットに抑えたことで、継投でのノーヒットノーランを達成している。
1943年には4勝を挙げているが、シーズン終了後に応召を受けて退団している。
終戦後、1946年にゴールドスターに入団し、球界復帰。1946年には先発投手の一角として起用され、9勝16敗、防御率4.44を記録。1947年には11勝23敗、防御率2.69を記録するなど、大きく負け越しはしたが先発投手として活躍した。ただ、1948年の2月末、チームが経営難のため国民リーグの大塚アスレチックスに売却された際に契約を結ばれなかった。
その後、篠崎倉庫でのプレーを経て、1948年に太陽ロビンスに入団。
1949年、先発陣の一角に食い込み、9勝16敗、防御率4.81を記録。
1950年、エースの真田重男やルーキーの大島信雄とともに投手陣の軸として活躍。23勝8敗、防御率2.83と好成績を残し、セ・リーグ制覇に大きく貢献した。
大洋でも先発投手として起用され、在籍6シーズン全て負け越しているものの、1952年と1955年には10勝を挙げている。
1965年に投手コーチに就任すると、その後、西鉄ライオンズ(太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ)でも投手コーチや二軍監督を務めた。近鉄時代には鈴木啓示や神部年男らを、西鉄時代には古賀正明を育成した他、山下律夫を復活させるなど、その手腕は高く評価されていた。
1978年2月11日、キャンプ初日に「気分が悪い」と訴えて倒れ病院に搬送されたが、脳梗塞のため死去。享年54歳。
人物・エピソード
高い制球力と粘り強さを武器として、打たせて取る投球で活躍した先発完投型の右腕。フォームはオーバースローであり、シュートやシンカーを持ち球としていた。
打撃力も高く、1950年には5本塁打、22打点を記録している。
1948年~1955年の登録名は「江田貢一 (えだ こういち)」。
通算成績
投手成績
通算:15年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 370 | 123 | 22 | 97 | 147 | --- | --- | .398 | 2165.0 | 690 | 447 | 1101 | 869 | 3.61 |
獲得タイトル・表彰・記録
関連項目
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