田村宗顕(たむら・むねあき 1574?~1648?)とは、陸奥の戦国大名である。江戸時代にも同名の人物がいるがここでは割愛する。
概要
戦国大名田村氏の第26代当主であり、戦国大名としては最後の当主。「宗」の一字は伊達政宗からもらったものである。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易された。
生涯
田村家は坂上田村麻呂の子孫を称し、三春城を拠点とした小大名である。
先代当主・田村清顕(宗顕の伯父)は生き残りをはかるため、伊達政宗に娘・愛姫(のちの陽徳院)を嫁がせて婚姻同盟を組んで、周辺の蘆名氏や二階堂氏に対抗していた。そして跡継ぎ息子がいなかったので、政宗と愛姫の間に田村の血をひく子供が生まれたら跡継ぎにするという取り決めを遺し、1586年に死去した。
だがこの時点では愛姫に子は生まれていなかったことと、清顕の妻は相馬氏の出身であったことが加わって、相馬義胤がこれに介入してくる。伊達派と相馬派に田村家中は分裂するが、最終的に政宗の介入で清顕の弟の子である顕季を跡継ぎ誕生までの「中継ぎ」の当主(名代)に据えることが決まり、名を宗顕と改めた。
この時点での田村氏は、ほぼ伊達氏の従属下にあったとは言えいち大名として存続していた。だが1590年に豊臣秀吉が小田原征伐を行うと、伊達政宗は田村氏を含む支配下に置いた大名たちを家臣とみなして(他には留守政景、石川昭光など)小田原へ行かないように指示し、自分だけが小田原に参陣した。この結果、小田原に参陣しなかった伊達配下の小大名はことごとく改易され領土を没収されてしまう。留守政景や石川昭光はもともと伊達氏から養子入りした人物なのでその後は伊達の重臣におさまったが、田村氏は一応婚姻同盟の関係であり家臣ではないという意識が強かったため(秀吉からも小田原に参陣するよう要求されており大名として認識されていた)、宗顕らはこの処分に愕然とする。なおこの時宗顕17歳。
更に畳みかけるように政宗が、没収された旧田村領は岳父・清顕の治めていた土地だからと豊臣秀吉に訴えたことで、伊達家に与えられた。先祖代々の土地を完全に乗っ取られる形となった田村家臣団は政宗の一連の行動に対して憤慨、失望する者、裏切りと感じる者が多かった。政宗は彼らを伊達家臣として召し抱えようとするが、多くがこれに反発して帰農したり他の大名家に仕えるなど離散した。宗顕も牛縊定顕(うしくびり・さだあき)と「宗」の字を捨てて改名し、陸奥国伊具郡にて若くして隠居する。のちに愛姫の願いもあって片倉重長が治める白石城下に移り住んだ。その後の宗顕の動向についてはほとんど伝わっていない。
宗顕の子・田村定広はのちに片倉喜多(1610年没)の名跡を継ぐことになり、片倉定広と名乗る。以後、宗顕の子孫は代々片倉氏を称して伊達家臣となった。なお定広の妻は真田幸村の六女・阿昌蒲(おしょうぶ)である。
その後
田村清顕の遺言である田村氏の後継者の件は、政宗と愛姫の間に子が生まれた後も長らく放置されていた。愛姫は政宗や息子・伊達忠宗に何度も田村家再興を訴えたが実現出来なかった。最終的に1653年に愛姫(陽徳院)が86歳で亡くなる際、忠宗の三男・忠良に田村家を継がせて欲しいという遺言をのこし、忠宗がこれを受け入れたためようやく孫の代で田村氏は再興した。その田村忠良の子・田村建顕の代に一関藩3万石に移され、以降幕末まで一関を治めている。全くの余談だが、この建顕の代に赤穂事件が発生しており、浅野長矩が預けられて即日切腹したのがこの一関藩の屋敷である。
失われた三春の地は伊達政宗から蒲生氏郷、上杉景勝と領主が移り変わり、1645年以降は秋田氏が幕末まで治めた。帰農した旧田村家臣たちは庄屋になるなど、村落の支配層となった者が多くいた。
関連動画
「なんとぉ!?」
婚姻同盟の関係で、真田・豊臣・伊達の3大勢力の中でポツンと1城で生き残る田村さん。合戦で勝利するといつも驚いてくれるので、いつのまにか作者からも視聴者からもアイドル扱いにされるように。
関連項目
- 4
- 0pt