畠山尚順(1475~1522)とは、室町時代から戦国時代にかけて活躍した武将である。
概要
畠山政長の息子。足利義稙ファンクラブ終身名誉会長。河内・紀伊・越中守護。次郎。尾張守。
父・畠山政長は畠山氏家督の座をめぐって畠山義就、畠山義豊父子と争った人物である。応仁の乱では東軍につき、足利義政・足利義尚の二代にわたって仕え、室町幕府への献身は西軍・足利義視の息子・足利義材に代わってなお続いていった。
それは畠山尚順の方も変わらず、1486年に元服した後足利義尚、足利義材の近江出陣にも随従。しかし、明応二年(1493年)についに運命の日が訪れる。明応の政変である。足利義澄を擁立したクーデター側は、足利義材とともに畠山義豊攻略を勧めている畠山政長を襲撃。足利義材は捕らえられ、畠山政長は自刃。息子の尚順も辛くも紀伊に逃れるという有様であった。
しかしそこからは畠山尚順の反撃であった。紀伊を地盤とし、和泉も味方につける。そして河内に出撃し、ついに1499年に畠山義豊を討ち取ったのである。この間逃走させ越中守護代神保氏に匿わせていた足利義尹(足利義材)としきりに連絡を取りあい、神保氏が和睦を進めていくことに反発して越前の朝倉氏の下に逃れた義尹をなおも支えようとする、唯一と言っていい勢力であった。
そして足利義尹が出陣すると、畠山尚順も呼応。しかし結局これは失敗に終わり、義尹が大内氏を頼って西国に逃走すると、細川政元とその命を受けた畠山義英の攻勢で再度紀伊に敗走。翌年には和泉から河内を攻め、岸和田城で和泉半国守護細川元有を討ち取るも、高屋城攻めは失敗。1504年に細川政元の説得でついに義英と和睦したのであった。しかし、細川政元は畠山氏の復権を危惧して赤沢宗益や摂津勢を発向させ、再び紀伊に追われた。
1507年に細川政元が暗殺されると、結局路線をめぐって畠山義英と対立。畠山尚順は細川澄元と和睦して義英の籠る嶽山城を攻略。しかし、1508年には大内義興が足利義稙(足利義尹)を引き連れて上洛すると、澄元と対立する細川高国とともにこれに同調。大内義興、細川高国、同族の能登守護・畠山義元とともに義稙政権を構成する4人の守護の一人となったのである。その後細川澄元方の赤沢長経や、依然対立する畠山義英との決戦に明け暮れる日々が続いていった。
1516年には京から紀伊に戻る。家督はこのころ息子の畠山稙長に譲って隠居したようだ。しかし、1520年に家臣と対立して堺に逃れる。最終的には紀伊の奪還に失敗し、そのまま京を追われ淡路に落ち延びた足利義稙のもとに仕え、同地で没した。彼の死後畠山尾州家にも様々な試練が訪れていく。
補足
蒼天録のみ登場…最近のシリーズでは親としてデータだけは存在する(全能力値1だけど)。
畿内政治史で畠山氏が脚光を浴びるようになったのは最近のため、能力値はやっぱり低め。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 74 | 知略 | 31 | 政治 | 25 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連項目
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