第一三号型駆潜艇(だい13ごうがたくせんてい)とは、大日本帝国海軍(以下、帝国海軍)により建造・運用された駆潜艇である。
概要
1930年代、帝国海軍は極東ソ連海軍の潜水艦戦力の増強をにらみ、日本近海と朝鮮・満州・台湾・支那方面への航路防備のため駆潜艇建造を決定した。こうして帝国海軍における駆潜艇はまず、第一次補充計画(①計画)の昭和八年度追加計画により2隻建造された第一号型駆潜艇に始まり、第三号型、第五一号型、第四号型と合計15隻が建造された。
しかし、これら初期に建造された駆潜艇は(もともと実験艦的な性格も持っていたのであろうが)帝国海軍にとって満足のいく性能ではなかった。それは同時期に発生した友鶴事件や第四艦隊事件で明らかになったように、凌波性・耐波性が著しく不足していたこと。また、船型が過少に過ぎ、近海防備用としても航洋能力に欠けていたこと。 そして、一旦緩急あれば量産が求められる艦艇として、(他の帝国海軍艦艇と同様に)凝った造りをしており量産に不向きであった点である。以上のような経緯を経て、それらの欠点を克服すべく建造された駆潜艇が第一三号型駆潜艇であった。
まず、第一三号型駆潜艇は船型が前級である第四号型から150t程度大型化し航洋能力が強化され、凌波性・耐波性の向上を見た。また、構造も簡易なものとされ量産性も大きく向上し、機関も第一号型や第四号型よりも出力が低下したものの、信頼性が高く量産も容易な艦本式23号8型ディーゼルに変更されている。兵装も船体が大型化した事により余裕が生まれたため、高角砲を搭載し対空・水上砲戦能力も強化された。勿論、対潜兵装として爆雷36個、爆雷投射機2基、爆雷投下軌条1基も搭載し、水中聴音機と音波探信儀も装備していた。尚、対潜兵装については前級までと大差ないが、当時の駆逐艦などと同等の装備を与えられており、帝国海軍において第一級の対潜能力を有していた艦として誕生した。
ちなみに、第一三号型駆潜艇は昭和14年(1939年)の第四次海軍軍備充実計画(④計画)で4隻の建造が計画され(翌年更に11隻追加)、昭和15年(1940年)から就役を開始し、太平洋戦争開戦時11隻就役、最終的に昭和16年(1946年)までに計画通り15隻就役している。
こうして建造された第一三号型駆潜艇だが、初期の駆潜艇での問題部分をフィードバックしており、その性能は帝国海軍の満足し得るものであったのではないだろうか。しかし、第一三号型駆潜艇の建造中に周囲の環境に著しい変化が起こっていた。すなわち、対英米関係の急激な悪化に伴い、守るべき航路が日本近海のみから遠く東南アジア方面まで拡大したのである。勿論、帝国海軍としてもより大型の船団護衛用の艦種である、海防艦の建造を進めていたが、その数がそろうまでは時間を要したため、戦備の整わないまま太平洋戦争が開戦してしまった。結果として、不足する護衛艦艇の穴埋めとして白羽の矢が立ったのは、帝国海軍有数の対潜能力を持ち、そこそこ数も揃っていた(開戦時で一号型から一三型まで合計26隻就役済み)第一三号型駆潜艇を始めとした駆潜艇であった。
このようにして、当初の計画を超えた任務に従事する事となった第一三号型駆潜艇だが、その運用は困難を極めた。何せ元が日本近海用の軍艦である。船団護衛以前にその船団についていく事すら困難を伴う時もあったし、装備も貧弱であったため、交戦により戦没してしまった艦も多かった(同型艦15隻中9隻戦没)。 しかし、戦争中34隻も建造された第二八号型駆潜艇のベースとなった点など注目すべき点も多く、能力不足であったとはいえ不足した護衛艦の穴を埋めるべく奮戦した姿は、帝国海軍を彩る軍艦の一つにふさわしいといえる。最もその奮戦は海上護衛に対する帝国海軍の定見の無さに振り回された姿と表裏一体であるのだが・・・
諸元
| 基準排水量 | 438t |
| 全長 | 51.00m |
| 最大水線幅 | 6.70m |
| 喫水 | 2.75m |
| 機関 | 艦本式23号8型ディーゼル 2基2軸 1,700馬力 |
| 速力 | 16.0kt |
| 航続距離 | 2000nm/14kt |
| 燃料 | 重油16t |
| 乗員 | 68名 |
| 兵装 | 四〇口径三年式八糎高角砲1基 13mm機銃連装1基 94式爆雷投射機2基 爆雷投下軌条1基) 爆雷36個 |
| ソナー | 九三式水中聴音機1基 九三式探信儀 |
| 同型艦 | 15隻 |
※データは竣工時。戦争中の改装により電探が追加されたり機銃が追加されている。
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 0
- 0pt

