藤原惟規単語

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フジワラノノブノリ
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藤原惟規(?1011頃)とは、平安時代の人物である。

概要

端的に言えば紫式部兄弟。彼本人は特に何かやったわけではなく、子孫が院政期に大きく躍進したくらいしか書けることはない。なお、『尊卑分脈』に「ノフノリ」とある、『御堂関白記』に藤原道長に「宣規」と誤字られているの二点から、名前読みは「ノブノリ」であるらしい。

また、よく紫式部扱いをされるが、実はこれは、『紫式部日記』にある、父親から籍を習っていた藤原惟規よりも、自分の方があっけなく覚えてしまったというエピソードの拡大解釈で、確かな拠があるわけでもない。むしろ、自慢話であれば、の方がふさわしいのではないかとも言えるので、紫式部との兄弟順は実はである。

上記のエピソードから、姉妹紫式部的にもそんなに優れていなかった扱いをされていたくらいの才覚である。少内記・兵部などを経て、寛4年(1007年)に六位蔵人にされた。なお、『御堂関白記』を読むと藤原道長的には、「あいつもいい歳だしなんか嫌だけど、他に人いないし仕方ないか…」くらいの温度感だったらしい。よって、出世も遅れ、そこまで優れたところもないという、そういう感じの存在だったようだ。

この辺は、『御堂関白記』の寛5年(1008年)7月17日条に、藤原道長が「あの藤原惟規クンだっけ、ウチの藤原彰子出産するのでウチに戻ってきたんだけど、勅使でウチに来たから飲ませたらべろんべろんになるわ、あげようとしたら座ったまま受け取ってしかも「小拝」で礼を済ませるわ、やっとなんかせっかくちゃんと改まった気配出したに庭で一礼して終わらせるわ、やべーやつだなあ…」というようなボヤキをわざわざ書いている。ので、良くも悪くも大雑把な粗ものだったらしい。

さらに、『小右記』には同じ年の12月25日に、御名に来た僧侶たち全員に配る綿を一人に渡してしまって、僧侶たちの綿の奪い合いを招き、藤原実資から「故実知らんのかあいつ」と嘆かれる。『紫式部日記』にも、この5日後の12月30日に、盗賊が入ってきて紫式部が恥も忘れて下っ端に「ウチのアレでもいいから急いで呼んで来い」と命じたにもかかわらず、その時不在だったというエピソードが書かれていた。

で、寛8年(1011年)に蔵人をやめ、藤原為時の越後守の手伝いに越後に行く途中で重病にかかり、たどり着くとあっけなく死んだ。後世の『今昔物語集』で、死ぬ間際に念仏に来た僧侶の前で、「生まれ変わるまでの間には、紅葉の音など流なものはないんすかねえ」と言って、あきれた僧侶逃げ帰った話が残されていたりする。

なお、藤原惟規の妻としては、紫式部の同僚の伊勢大輔和泉式部の姉妹の斎院の中将らがいた。力はなかったのだが、和歌は好み、モテてはいたようだ。ちなみに、紫式部的には斎院の中将は典的な知識ひけらかしだったと映り、『紫式部日記』でかなりディスられている。

この藤原惟規の息子藤原貞職、孫・藤原盛綱は正直パッとしないのだが、ひ孫藤原の代になると、摂関藤原忠実、藤原忠通子の人としてみることができる。

で、この藤原の子こそが、摂関から平清盛の懐の一人となった、藤原邦綱である。よって、紫式部一門は、権門とのかかわりもない文人貴族から、紫式部藤原彰子に仕えたことと前後して摂関と関係を深め、生き残りを図っていったわけである。ただし、この藤原邦綱は当然一代でその権勢を終え、子孫はその後パッとしなくなるのである。

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