松平慶永 / 春嶽(1826~1890)とは、幕末に活躍した大名である。
概要
結城秀康の衣鉢を継ぐ越前松平家当主。一橋慶喜(後の徳川慶喜)を徳川家定の後継者に据えようとしていた、一橋派の一人。また天保期以降の明君の一人。
御三卿に一人である田安斉匡の8男として生まれる。生母は閑院宮用人木村政辰の娘・木村れい。幼少期は「錦之丞は羊の如し、紙を好む」と言われたほど、読み書きが好きな人物だったらしい。
当初は伊予松山松平家の養子となる予定だったが、天保9年(1838年)の松平斉善の急死を受け、松平斉承の正室・浅姫の意向もあって、越前松平家に入った。
家督を継ぐと、中根雪江らを登用し、財政再建や教学刷新に取り組む。嘉永2年(1849年)に細川斉護の娘・勇姫と結婚する。すでにこの頃徳川斉昭、島津斉彬、山内豊信、伊達宗城らと交流を持ち、国家的危機意識を持っていた。
ついには一橋派として安政5年(1858年)の安政の大獄で隠居を命じられるも、文久2年(1862年)に復権。文久幕政改革を指導した。松平慶永の構想では、有力大名の幕政参加を通じた将軍権力の再編を目指したが、幕府内の反発と尊王攘夷論の台頭で実現は難しく、諸侯会議でなんら実りを得られないまま王政復古を迎えてしまった。
新政府では議定、内国事務総督、民部卿などを歴任する一方で、徳川慶喜の救済活動に関わる。明治3年(1870年)に官を辞し、『幕儀参考』、『逸事史補』などを著し、伊達宗城とともに『徳川礼典録』の編纂にも関わった。その一方で徳川家達の伯父としてその養育にも関与していく。
なお、宗家だけではなく越前松平家にも崇敬の念を抱き、処罰された松平忠直の追孝活動にも幕末から尽力していったという。
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