ザ・スパイダースとは、日本のグループサウンズのバンドである。
1961年、スウィング・ウエストのドラムスであった田邊を中心に結成される。名付け親はかまやつの父親であるティーブ・釜萢である。メンバーチェンジを繰り返し、1964年にGS時代のメンバー7人が揃う。
この時期、既に来日アーティストのバックバンドや前座を務めている。特に、アニマルズの来日の際には、前座にも関わらずほぼ完コピされた「ブーン・ブーン」を演奏してしまい、楽屋でヒゲを剃っていたボーカルのエリック・バードンが出番かと慌てて舞台袖まで駆けつけたという話が知られている。
1965年、クラウンよりかまやつ作詞・作曲のシングル「フリフリ」でデビュー(ジャケットの撮影に遅刻したためにシングルのジャケットには彼の姿はないw)。このころは田辺昭知とスパイダース(1stシングル)、田辺昭知とスパイダーズ(4thシングル)、ザ・スパイダース(それ以外)の名義のシングルが、クラウン(1st、4thシングル)、ビクター(3rd)、フィリップス(それ以外)から発売されている。しかし1966年4月以降は全てザ・スパイダース名義でフィリップスから発売されるようになっている。
1966年4月、「アルバム No.1」を発表。12曲中10曲がかまやつ、1曲が大野によるオリジナルで、残る1曲も単なるカバーではなく、アルビノーニのアダージョに歌詞をつけたと言うもので、「リバプール・サウンド」に対抗して「トーキョー・サウンド」を標榜したのも納得できるほど、当時の日本のロックバンドのアルバムとしては屈指の出来であった。しかし、当時の日本では直球のロックが受けるはずもなかった。
そこで、浜口庫之助作詞・作曲の「夕陽が泣いている」を9月にリリース。これが120万枚の大ヒットを記録。また同時期にジャッキー吉川とブルー・コメッ ツが「青い瞳」を、ザ・ワイルド・ワンズが「想い出の渚」をヒットさせるなどして、一躍グループサウンズブームが巻き起こるのである。同年秋には早くも ヨーロッパ巡業を行い、各地でライブ及びTV出演するなどした。特にイギリスでは伝説の番組「Ready Steady Go!」に出演し、スペンサー・デイヴィス・グループやマインドベンダーズなどと共演した(ただし映像が残っているかどうかは分からない)。
この年から翌々年にかけてGSブームはピークを迎え、スパイダースも音楽活動に加え映画出演(主演だけでも5本、それ以外も含めると12本!)なども制作されるなど、全盛期を迎えた。スパイダースの代表曲とされるものはほぼこのころの作品である。
このころオリコンチャートが始まり、当然ながらスパイダースも「いつまでもどこまでも/バン・バン・バン」(4位)「あの時君は若かった」(6位)など、数多くのシングルが上位にランクインしている。
また商業面だけでなく、1968年10月発売の「明治百年、すぱいだーす七年」ではコンセプトアルバムに挑戦するなど、音楽面でも充実していた。
しかし1969年になると、GSブームの衰退に合わせてレコードの売上、観客動員数ともに減少が目立つようになる。堺、井上順はソロ活動に重点をおくようになり、二人を抜いたスパイダース5/7として活動を行うこともあった。さらに翌1970年になるとかまやつもソロアルバムを発表するようになり、徐々にスパイダースとしての活動は低調になっていった。
また田辺が5月限りで、所属事務所であるスパイダクション(後の田辺エージェンシー)の経営に参加するため脱退。そして11月、かまやつが脱退し、同年をもってザ・スパイダースは解散した。
堺、井上順は歌手及びタレントとして、かまやつはミュージシャンとして、大野克夫、井上堯之(孝之)は作曲家として、田辺は前述した芸能事務所社長として活動した。井上堯之は2009年に一時引退を発表したが、現在は活動を再開している。
スパイダースの再結成は数度行われている。早くも1971年の日劇ウエスタンカーニバルには再編成という形で参加し、1977年、1981年にはメンバー7人そろっての再結成がおこなわれた。それ以外でもメンバー数人がそろってスパイダースの楽曲を演奏することがしばしば行われている。なかでも1999年に堺、かまやつ、井上堯之の3人で結成したソン・フィルトルは新曲を発表し、紅白歌合戦にも出演するなどした。
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最終更新:2024/03/29(金) 06:00
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