ヒ船団とは、大東亜戦争中に大日本帝國陸海軍が運行した、本土・南方資源地帯を往来する船団である。
ヒはフィリピン(ヒリピン)の頭文字から取られている。
1941年12月8日、大東亜戦争開戦と同時に日本の陸海軍は南方作戦を実行。連合軍を一掃し、東南アジアの資源地帯を電撃的に占領して緒戦の戦争目的を達成した。獲得した占領地域から日本本土へ物資を運ぶため、定期的に輸送船が往来したが海軍が護衛に無関心だったので護衛無しの単独航行であった。そこへ米潜水艦の襲撃を受け、撃沈される輸送船が相次いだ。
1943年7月、帝國海軍はようやく重い腰を上げ、石油輸送を専門とする高速輸送船団の編成に着手。こうしてヒ船団が誕生した。日本を出発する船団には奇数番号が振られ、南方から帰還する船団には偶数番号が振られた。主航路は門司港→高雄→マニラ→サイゴン(飛ばす場合もある)→シンガポール。往路では兵員や物資を運び、復路では資源や重油を運んだ。1万トン以上のタンカーであれば年間16万トンの燃料輸送が見込めたという。当初は大型の優秀船舶が投入されたが、戦局の悪化により大型船を次々に喪失。次第に鈍足の輸送船まで投入するようになり、速力13ノット以上の船団はヒA船団、以下はヒB船団と呼称された。開戦当初は護衛に無関心だった海軍も、増大する損害を前に護衛専門の第1海上護衛隊を創設。ヒ31船団の護衛として、試験的に軽空母千歳と駆逐隊が参加。空母の参加は今回が初めてだった。千歳は九七式艦攻による対潜哨戒を行い、敵潜水艦を威圧。敵潜レッドフィンの襲撃で駆逐艦天津風が大破漂流させられるも、輸送船4隻は無傷のままシンガポールへ入港した。これを機に、海上護衛隊は掃海艇や駆潜艇、大鷹型空母をヒ船団の護衛に充てた。一時は月間の損失が30万トンを超える頭が痛くなるような損耗率だったが、ヒ船団の導入により1944年4月の損耗率は半分以下の13万トンにまで引き下げられた。無事往来に成功するヒ船団が増え、確かな効果が得られた。一方で割ける護衛艦艇が旧式艦かつ少数だったため、ヒ40船団では遂に船団の壊滅という最悪の結末を迎えた。
戦況が更に悪化すると、跋扈する米潜水艦の数が増加。加えて敵機動部隊の艦載機も通商破壊に参加し、護衛艦艇もろとも被害を受ける事態が多発。1945年1月には南シナ海に侵入してきた米機動部隊によってヒ86船団とヒ87船団が空襲を受け、壊滅する大損害をこうむった。これを受けてヒ船団は規模を縮小し、細々と往来。しかしアメリカ軍のルソン島上陸が始まり、航路のド真ん中に敵の勢力圏が築かれた。それでも大本営はシーレーンの維持を強行し、ヒ船団を送り出し続けた。1945年2月22日にシンガポールを出発したヒ96船団が最後の成功例となり、持ち帰った燃料は戦艦大和の水上特攻に用いられた。
1945年3月16日、本土決戦に備えるため大本営はヒ船団の運航を中止。最後にシンガポールから出発したヒ88J船団は内地に辿り着く事なく全滅。こうして南方航路は閉鎖され、ヒ船団は終焉を迎えた。同時に南方との連絡が完全に途絶し、本土と資源地帯が分断された。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/08(金) 17:00
最終更新:2024/11/08(金) 17:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。