南方作戦とは、大東亜戦争開戦劈頭に日本の陸海軍が実施した作戦である。
1937年、支那事変が勃発。大日本帝國vs抗日民族統一戦線の戦いが幕を開けた。中国の肩を持つアメリカ、イギリス、オランダは日本に対し様々な経済制裁を行った。中でも痛撃だったのが、石油の禁輸であった。石油の8割をアメリカからの輸入に頼っていた日本は一気に青ざめた。このまま国内の備蓄が尽きれば国防はおろか、交通機関まで壊滅し国体すら危うくなる。しかしアメリカが突きつけた禁輸解除の条件は到底飲めるものではなかった。八方ふさがりとなった日本は一か八かの開戦を決意。対米英戦争の準備を始める。長期持久戦の体勢を作るためには、泣き所の石油不足を解消しなければならなかった。そこで立案されたのが南方作戦だった。日本から見て南方、つまり東南アジア一帯を連合軍から奪取して油田や産油地を確保するのが目的である。戦争の勝敗を占う重要な作戦のため、陸海軍は綿密に打ち合わせを行った。大東亜戦争開戦の狼煙となった真珠湾攻撃でさえ、南方作戦を円滑に進めるための支援に過ぎなかった。
開戦の日に合わせ、帝國陸海軍は前進拠点である海南島、パラオ、台湾に進出。全力を以って作戦に臨む。そして1941年12月7日、マレー上陸を以って南方作戦が開始された。
開戦前より蘭印の産油地帯の確保を考えていた日本だったが、その達成にはイギリス領マレー半島の占領が不可欠だった。しかしマレー半島南端には、1938年に要塞化が完了したイギリス軍が誇るシンガポール要塞が存在。その堅牢さは「東洋のジブラルタル」と評されるほどだった。このシンガポールの弱点を探るべく、1940年9月に陸軍参謀作戦課の将校2名を外務省伝書使を装って潜入させるも、強力な沿岸砲がある事から海路からの侵攻を断念。半島北部から1000km南下して陸路で攻め入る決断を下す。またマレー半島は米や天然ゴムの産地でもあり、これらを確保する狙いもあった。マレー攻略を狙った一連の軍事行動をマレー作戦と呼称する。
陸軍は第3飛行集団をベトナムやカンボジアに進出させ、現地で飛行場建設を行っていたが、九七式戦闘機では航続距離が足りず、新鋭の一式戦闘機も40機程度しか揃わなかった。このため、より近い中立国タイのシンゴラとバタニの飛行場を開戦後に占領する事にした。
1941年7月、マレーの攻略を担当する第25軍の司令部がサイゴンに進出。自動車859台や戦車隊を有する高度に機械化された師団を集中配備した。9月、陸軍航空隊はマレー方面攻略に注力する事が決まり、航空兵力の増援が送られた。12月4日午前7時、第25軍の先鋒2万名を載せた輸送船17隻と病院船1隻が海南島三亜港を出港。14ノットで南下したのち、サンジャック沖で輸送船6隻が合流。第3水雷戦隊を主力とした第1護衛艦隊と第7戦隊及び第3飛行集団の航空機800機が護衛に回った。輸送船団はタイのシンゴラ、パラニ、マレーのコタバル、タペー、ナコン・スリタムラートの上陸地点に向けて分散。12月6日、コタバルを出撃したオーストラリア空軍第1飛行中隊のロッキードハドソンが25隻の輸送船団を発見。シンガポールに通報されたが、この時はまだ日本軍の上陸作戦を見抜けず、下手に攻撃すれば国際問題になるとして手出しはしなかった。翌7日朝にはカタリナ飛行艇が再度船団を発見するが、九七式戦闘機5機によって撃墜される。
日本側の兵力は、山下奉文陸軍中将率いる精鋭の第18軍や第25軍3万5000人など総兵力は約6万。迎え撃つのは、シンガポールに司令部を置くパーシバル中将率いる英印軍(英、印、豪)約13万。北アフリカ戦線を体験したイギリス兵や、砂漠戦の訓練を受けたインド兵が含まれており、決して弱い相手とは言えなかった。しかしインド人は日本に敵愾心を抱いておらず、他にも軍内部にシーク派や反シーク派が混在するなど部族同士の対立もあって思うように戦闘能力を発揮できなかった。
1941年12月8日午前0時、安藤支隊を載せた輸送船団がタイランド湾に到達し、シンゴラへの上陸を開始。南西に進撃してタイとマレーの国境付近にあるイギリス軍のジットラ・ラインに向かった。続いて真珠湾攻撃の約1時間20分前である午前1時30分(日本時間)、コタバルへの上陸が開始。現地を守備するインド第9師団と交戦状態に入った。マレー半島北部のジットラ・ラインと、中部の上陸地点で戦闘が生起。沖合いには近藤信竹中将率いる艦隊(旗艦鳥海、駆逐艦10隻、潜水艦5隻)が展開し、陸軍の上陸を援護した。
イギリス空軍所属ロッキードハドソンの襲撃により、大型輸送船淡路丸が航空燃料に引火して爆沈。輸送船兼防空船佐倉丸と綾戸丸が大破し、320名の戦死者と538名の負傷者を出した。上陸地点でも英印軍の機関銃が盛んに火を噴くなど強固な反撃を受けたが、日本軍の勢いは止まらず、午前4時までに2つの拠点を確保。そこを足がかりにじわじわと勢力圏を広げていった。ここで英印軍に不利な事態が発生する。16時頃、マレー半島の防空を担うコタバル飛行場にて「日本軍が海岸の防御施設を突破した」という流言飛語が流れ、これを鵜呑みにした英印軍は17時に建物へ放火して撤退。稼動機5機を南部のクアンタンに退避させた。しかし周囲には日本兵の姿は無くデマである事が判明、既に兵を呼び戻すには遅すぎた。貯蔵燃料庫は破壊されたが、飛行場は無傷のまま残っていたため、12月9日午後に日本軍が占領。即座に第12飛行師団が進出してマレーの制空権を掌握した。上陸部隊は、マレー半島東岸に沿って南下を始めた。
12月10日昼頃、マレー沖にてシンガポールから出撃してきた英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ率いるZ部隊とサイゴンに進出していた陸攻隊が交戦し、2隻の戦艦を撃沈(マレー沖海戦)。反撃の中核となるはずだった二大戦艦の沈没は連合軍に大きな衝撃を与え、海上兵力の減少によって制海権も日本軍が握った。
マレー半島北部とタイ国境地帯の間には飛行場群を守るための要塞ジットラ・ラインがあった。英印軍6000名、装甲車90輌、火砲60門、機関銃100丁があり、十重二十重に地雷と鋼条網が張り巡らされていた。イギリス軍はジットラ・ラインを「プチマジノ」と呼称し、ここで日本軍を3ヶ月足止め出来ると考えていた。タイ国内からマレー半島に突入してきた帝國陸軍第25軍はまずジットラ・ラインを突破しなければならなかった。帝國陸軍は藤原岩市少佐率いるF機関を組織し、ジットラ・ラインに忍び込ませた。
12月11日午前8時、第25軍はジットラ・ラインに攻撃を開始。実は日本側の多くはジットラ・ラインの存在に気付いておらず、航空兵力や艦砲射撃の援護無しに猛攻を仕掛けた。まさか援護無しで突っ込んでくるとき思わなかったイギリス軍は虚を突かれ、あちこちで突破を許した。さっそく先遣部隊を撃破し、対戦車砲2門を鹵獲した。英印軍第15旅団のガレット准将は後退を命じたが、戦車を先頭に突き進んでくる日本軍に追いつかれ、後方部隊が散々に打ちのめされる。第15旅団は恐慌状態に陥り、またしても対戦車砲を鹵獲されている。ようやくアスンを守備していたグルカ族の中隊が反撃に転じ、激しい戦闘が繰り広げられた。日本側は素早く先手を打ち、正面と側面からグルカ中隊を攻撃。彼らは散り散りになり、秩序無き撤退を強いられた。英印軍は総崩れとなり、潮が引いていくように退却。レスター大隊やグルカ人部隊が頑強に抵抗し、何度か攻勢を跳ね返した事はあったが、日本軍の勢いを止めるには至らなかった。
F機関はマレー青年同盟やインド独立連盟と秘密協定を結び、ジットラ・ラインを守るインド兵とマレー兵に投降を呼びかけた。すると赤い投降表を持ったインド兵やマレー兵が次々に投降し、それに伴ってイギリス軍の情報もどんどん舞い込んできたという。
12月12日、疲弊した英印軍は南方50kmのグランまで後退。翌13日、安藤支隊はジットラを占領。110名の戦死者を出したが、捕虜1000名、砲51門、装甲車及び自動車210両、機関銃50丁を得た。堅牢ジットラ・ラインは僅か1日で失陥し、無防備となった飛行場群は日本軍に占領された。安藤支隊は車両による追撃を行い、12月16日にスンゲイパタニーを占領。12月19日にはイギリス軍が撤退した後のペナン島とプッテルウォース港を確保。アロールスターにあるケダ川後方を目指して英印軍は後退していたが、その多くは重い武器を捨て去っていた。またマレー人に扮した日本軍狙撃兵が撤退中のインド第11師団を狙っており、落伍した兵から撃ち抜かれていった。それでも英印軍はケダ川に架かる道路と橋の爆破に成功し、日本軍の進撃速度を落とした。12月24日、ペラ河の北岸に到達。英印軍の手で鉄橋が破壊されていたため、九九式重門橋などを使って渡河し、12月17日にケダー州の州都を占領。相次ぐ敗報にイギリス軍はポッパム極東方面軍司令を罷免。アーチボルト・ウェーベル陸軍大将を据えた。
1942年に入ると、インド第11師団が防衛するスリム縦深陣地と交戦。ここは7重に渡る防衛陣地と25ポンド砲が備え付けられており、攻略を担当する第5師団は苦戦。1月7日、戦車第6連隊の二個中隊による突撃で翌日スリム台地を占領。捕虜1000名とブレンガンキャリアー84両、野砲7門、2ポンド砲68門、トラック600台を鹵獲した。インド第3軍団長はマラヤの首都クアラルンプールの防衛を断念して撤退、これが原因で軍団長を解任された。1月11日正午、歩兵第11連隊がクアラルンプールを無血占領。いよいよ、シンガポールがその姿を見せる。
1942年1月22日、第18軍主力がシンゴラに上陸。24日、日本陸軍第三飛行集団の航空資材を積載した輸送船2隻がシンゴラを出港。マレー半島南部東岸エンドウに向かった。これを阻止すべく26日にイギリス軍機のべ68機が襲来したが、直掩機と護衛艦艇の対空砲火により十数機を撃墜。損害は軽微だった。またシンガポールから英駆逐艦サネットとヴァンパイアが出撃し、翌27日に交戦。サネットは命中弾多数を浴びて撃沈、ヴァンパイアは煙幕を焚いて撤退した(エンドウ沖海戦)。揚陸作業は28日に完了、作戦は成功した。
英印軍が南部に撤退していくにつれ、現地人の心は宗主国から離れていった。日本軍に協力するマレー人が出始めたため、インド兵がそれを取り締まった。必要な物は現地調達が出来たため、補給部隊の到着を待たずに進撃できる日本軍は常に高速だった。快進撃を見せる日本軍は要所を次々に攻略、特に九七式中戦車が大活躍した。戦車を持っていない英印軍は対戦車砲に全て頼らざるを得ず、撃破する手段に乏しかった。上陸から55日後の1月31日に南端のジョーホルバルに到達。シンガポール要塞の対岸に布陣したが、一度準備を整えるために進撃を停止。後続の部隊が到着するのを待った。2月3日、162機の爆撃機がシンガポールを攻撃し、英印軍に損害を与えた。
2月8日朝、第25軍の準備砲撃が始まった。約20万発の砲弾が撃ち込まれたのち、翌9日に三方向から渡河を開始した。帝國陸軍は紀元節にあたる2月11日までにシンガポールを攻略したかったが、英印軍の必死の抵抗により、その意図は頓挫。さらに英印軍の攻撃は激しく、第25軍の弾薬が欠乏し始めた。一度退却する事も考えられたが、その寸前にパーシバル中将が白旗を揚げた。どうやら英印軍も弾薬が尽きかけていたようだ。2月15日。シンガポール陥落。約13万のイギリス兵が降伏するというイギリス史上最悪の敗北だった。想像を遥かに上回るスピードでマレー作戦を終えた。イギリス空軍が誇る新鋭機ハリケーンを鹵獲するというオマケ付きだった。
産油地帯であるインドネシアはジャワ島を本拠地とするオランダ軍が支配していた。南方作戦は重油の確保が主目標なので、インドネシアの制圧は是が非でも成功させなければならなかった。言うなれば、マレー作戦やフィリピン攻略は同地を円滑に制圧するための前哨戦に過ぎなかった。オランダ軍に対する一連の軍事作戦は蘭印作戦と呼称される。
蘭印作戦を実行に移す前に、日本軍はセレベス島の中心地であるメナド市に矛先を向けた。ここには約1500名のオランダ軍が守備するランゴアン飛行場があり、B-24リベレーターまで配備されていた。郊外のカカスにはカタリナ飛行艇用の水上基地まで擁しており、これを脅威と捉えた日本軍は1942年1月10日に攻略作戦を開始。この戦闘で日本軍は初の空挺降下部隊を投入。ダバオから飛び立った九六式輸送機27機と零戦54機は真っ直ぐにメナド市へ向かったが、道中で水上機母艦瑞穂の零式水上観測機に敵機と誤認され、輸送機1機が撃墜。搭乗員5名と降下兵12名が犠牲となった。午前9時20分頃、降下開始。オランダ兵約400名が待ち伏せる飛行場へと降下した。相手はトーチカや機関銃で撃ちかけるのに対し、降下兵はピストルしか持っておらず、苦戦。重火器を梱包した箱も一緒に投下されていたが、まずはそれを探し当てなければならなかった。それでもトーチカに手榴弾を投げ込んだり、戦車や機関銃を鹵獲して善戦。午前11時25分には飛行場を制圧し、14時50分にメナド市を完全制圧した。
1942年1月11日、香港攻略作戦から転戦してきた坂口支隊約5000名がボルネオ島に上陸。産油地や油田があるタラカン、メナド、バリクパパン、ケンダリーを次々に占領。退却するオランダ軍が一部の油田施設を破壊していったが、すぐに修復された。制圧した飛行場には航空隊が進出し、長大なエアカバーを提供。
連合軍の抵抗は非常に激しく、陸のみならず海でも海戦が生起。バリ島沖海戦、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦が発生したが、いずれも日本側が勝利。敗退した連合軍艦艇はオーストラリアかインド洋方面への撤退を強いられた。攻略は順調に推移し、3月1日からジャワ島への上陸が始まった。そして3月9日、オランダ軍が降伏。蘭印作戦は成功に終わった。
大東亜戦争開戦時、フィリピンはアメリカの植民地であった。東南アジアの連合軍艦隊は重巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦13隻、潜水艦29隻、水上機母艦4隻、潜水母艦3隻、駆逐艦母艦1隻、掃海艇5隻、魚雷艇6隻、飛行艇36機などを擁し、それらは米重巡洋艦ヒューストンに率いられていた。フィリピンは潜水艦基地に定められていたようで、全潜水艦が首都マニラにあるキャビテ軍港に停泊。広い太平洋にすら22隻の米潜水艦しかいない事を考えると、フィリピンの29隻は異常の多さと分かる。南方作戦における制海権奪取のためにもフィリピンの攻略は絶対とされ、開戦前から攻略が企図されていた。日本軍の航空隊がいる台湾からルソン島南部まで550kmも離れており、制空権の確保が問題となっていたが、支那事変帰りの熟練搭乗員の訓練や意見の取り入れにより1941年秋には問題を解決。正規空母を投入する必要が無くなったので、全て真珠湾攻撃に回された。
フィリピン攻略戦には本間雅春中将率いる第14軍が投入された。またパラオの海軍基地からは重巡足柄率いる艦隊が出撃し、約2万人の邦人を保護すべくダバオを目指した。12月8日の開戦とともに、台湾から飛来した零戦隊がクラークフィールドとイバ飛行場を攻撃。駐機していた米軍機は猛攻を受け、B-17爆撃機35機中18機、戦闘機53機とその他航空機が25~30機が破壊された。ただでさえ劣勢な航空兵力は打撃を受け、制空権は日本側の手中に収まった。フィリピン防衛を任されていたマッカーサー司令は、最初の数時間で防衛に失敗したと悟ったという。当時の連合軍は零戦の航続距離の長大さを知らず、付近に空母が潜んでいると考えて捜索を行っている。制空権喪失に伴い、アメリカ海軍は翌9日までに水上艦艇と潜水艦を蘭印方面に退避。マニラ湾に残っていたのは潜水艦6隻のみだった。
12月10日、台湾から出発していた輸送船団が港町アパリに到着。午前6時に二個中隊が無血上陸を果たした。米比軍の士気は低く、陸からの抵抗は殆ど無かった。しかし空からはB-17爆撃機が三度襲来し、第19掃海艇が沈没している。同日午前10時30分、27機の陸攻隊が台南基地を出撃し、キャビテ軍港に爆撃を仕掛けた。的確な爆撃により発電所、診療所、倉庫、信号所、無線受信所、兵舎、士官集会所などが破壊され、一気に機能を喪失。潜水艦シーライオンと掃海艇ピータンが沈没した。更に余波で魚雷貯蔵庫が爆発し、230本以上の魚雷が失われた。米潜水艦の支援は潜水母艦キャノパスに丸投げせざるを得なくなり、不活発化。日本艦隊の進撃を食い止める事すら出来なくなった。13時40分、フィリピン北部のアパリ飛行場を占領。陸軍機24機が進出し、エアカバーを提供した。同日中にルソン島西岸にも上陸し、ビガン飛行場の占領にも成功した。
12月22日には本間雅春中将率いる第14軍機甲師団がリンガエン湾に上陸し、米比軍の抵抗を排してロザリオを占領。本間中将はバウアンに戦闘指揮所を設置した。24日未明、第16師団がラモン湾に上陸し、タヤバス山系を横断して西に進んだ。この日、米比軍の司令であるマッカーサー大将は脱出命令を受ける。首都マニラにはアメリカ海軍の一大拠点であるキャビテ軍港があり、日本軍の激しい空襲が行われた。その攻撃に耐えかねたマニラは12月27日、非武装都市を宣言した。
1942年1月2日、補給基地のマニラを占領。近郊に駐機していたB-17爆撃機C型やD型が無傷のまま日本に鹵獲されており、内地に送られたのち陸軍飛行実験部が弱点の研究が行った。他にもロッキード・ハドソン、バッファローも鹵獲されている。首都占領により精鋭の第48師団と第5飛行集団は蘭印作戦に転用され、代わりに第65旅団が米比軍の追撃に充てられた。しかし第65旅団はマニラの守備隊として編成された二線級部隊であり、未だ戦力を残す米比軍に苦戦するきっかけを作ってしまう。
追い詰められた米比軍はバターン半島とコレヒドール要塞に立てこもり、頑強に抵抗。バターン半島の山岳地帯は未開の密林であり、米比軍の迎撃もあって一進一退の攻防が繰り広げられた。日本軍の損害は日に日に拡大し、1942年2月8日の第14軍幕僚会議では「戦闘継続か、攻撃中止して包囲封鎖か」を議論するほどだった。2日後、第14軍はバターン攻略を一旦中止。同月20日に参謀長の前田中将が罷免される事態となった。以降、日本軍は増援と補給を待ち続ける事になり、第4師団、第5師団の一個歩兵連隊、飛行第16及び第62戦隊、砲兵連隊など次々に応援が送られた。
3月12日、マッカーサー大将やサザーランド参謀ら20名が4隻の魚雷艇に分乗してコレヒドールを脱出。夜陰に紛れてオーストラリアに撤退した。そして3月28日に攻撃命令が下り、4月3日午前9時より第14軍が攻勢に出た。この時、既にシンガポールとジャワ島は陥落しており、バターン半島に立てこもる米比軍が東南アジア最後の連合軍であった。砲兵隊や九七式重爆撃機が要塞に猛攻を仕掛けるが、激しい爆撃や砲撃を浴びせてもビクともしない要塞が何度も日本の攻撃を跳ね返した。4月9日、バターン半島の米比軍が降伏。アメリカ兵1万2000名、フィリピン兵6万6000名、民間人2万6000名を捕虜とした。
最後に残ったのはコレヒドール要塞だった。こちらは5月5日22時45分に上陸作戦が始まった。ここでも米比軍は凄まじい抵抗を見せ、第14軍を苦しめ続けた。翌6日13時30分、米比軍の司令ジョナサン・ウェンライト中将が降伏を申し出る。本間中将と会見したが、ウェンライト中将は他地域には指揮権が及ばないとして、コレヒドール島のみの降伏を提示した。本間中将はこれを蹴り、戦闘続行。サンホセを奪取し、23時40分に第4師団がバッテリー岬南東に上陸。ここにきてウェンライト中将は無条件降伏を申し入れ、マニラ放送を通じて全米比軍に投降を呼びかけた。
1942年5月6日、コレヒドール要塞陥落。南方作戦は全て完了した。
南方作戦は成功に終わり、東南アジア一帯は全て日本の手中に収まった。産出された石油は輸送船に載せられ、戦争経済を支える大きな力となった。しかし安全に航行できたのは1942年くらいまでで、以降は米潜水艦の跳梁によりかなりの輸送船が沈められている。1944年10月20日にはアメリカ軍がレイテ湾に上陸し、フィリピン反攻を開始。最終的にはフィリピンは奪還され、1945年初頭には南方航路が壊滅的打撃を受けて閉鎖されてしまった。それでもシンガポールやジャワ島は終戦まで日本が保持した。
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最終更新:2024/11/11(月) 00:00
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