ルカ・バドエル(Luca Badoer)とは、イタリア・トレヴィーゾ県モンテベッルーナ出身の元レーシングドライバー(F1ドライバー)である。
多くのレーシングドライバーと同様にカートからキャリアをスタートさせ、1988年に16歳でイタリアの国際100ccクラスチャンピオンとなる。
1990年にはイタリアF3にステップアップし最終戦で優勝、翌91年にはシーズン4勝を挙げる。
その次の年、92年には国際F3000に参戦し、当時史上最年少となる20歳でチャンピオンとなった。
このような輝かしい実績を引っさげ、次世代を担うF1ドライバーの1人となることを期待されていた、が…
1993年に晴れてF1デビューを果たしたが、スクーデリア・イタリアはこの年最も戦闘力が低いマシンだったためにマシンの見た目以外に目立つところが無かった。
おまけにチームの資金が尽き撤退、シーズン終盤2戦には出走することすら叶わなかった。
翌94年はレギュラーシートを獲得することは叶わずミナルディのテストドライバーに就任。
この年限りで同郷の先輩ミケーレ・アルボレートが引退したため95年にはレギュラードライバーに昇格したが、資金不足から開発が進まず戦闘力が低いマシンでは8位2回が限界で入賞には手が届かなかった。
1996年には同じくイタリアチームのフォルティ・コルセに移籍したが、ミナルディ以上に戦闘力が低いマシンでは全く見せ場を作ることができなかった。
挙げ句の果てには第10戦イギリスGPを最後にチームの資金が尽き、バドエルはまたしてもチーム撤退の巻き添えでシートを失ってしまう。
1997年からはフェラーリのテストドライバーに就任し、マシンの開発に貢献しつつ再びレギュラードライバーのシートを得る道を模索することとなった。
1999年にはフェラーリの支援の下にミナルディのシートを獲得し、3年ぶりにレギュラードライバーに復帰した。
最終的にこのシーズンはテスト中に手首を負傷しステファン・サラザンにシートを譲ったブラジルGPを除く15戦に出走している。
この年のバドエルを語る上で避けては通れないのが、第8戦イギリスGPでブレーキのトラブルからミハエル・シューマッハがコースアウト、クラッシュを喫し右脚を骨折、欠場を余儀なくされたことである。
本来であればフェラーリと関係が深く、当時F1でレースに出ておりレース勘も鈍っていないバドエルが起用されるのが自然な流れだったが、フェラーリが代役に抜擢したのは彼ではなくミカ・サロだった。
これに関しては「同年デビューのチームメイト、マルク・ジェネに対して彼を上回るパフォーマンスを見せられていなかった」「アーバインのタイトル争いのライバルとなるミカ・ハッキネンにプレッシャーを掛けるため、彼を幼少期から知るサロを起用した」など様々な理由が囁かれている。
いずれにせよフェラーリがシューマッハの代役にバドエルではなくサロを選んだことは事実であり、バドエル自身は「ひどく失望した」「レースキャリアの中で最低の出来事だった」と振り返っている。
このシーズンの中でも特筆すべきレースが第14戦のヨーロッパGPである。
目まぐるしくコンディションが変わり、トップに立ったドライバーに次々と不運が起こりリーダーが変わる大荒れのレースの中、終盤にバドエルはなんと4位までポジションを上げていた。
しかし54周目に彼が駆るミナルディ・M01のギアボックスが音を上げてしまいコース脇にストップ、無情にも掴みかけていたF1初入賞のチャンスは手をすり抜けて行ってしまった。
コースサイドにマシンを止めたバドエルはステアリングを放り投げ降車、直後コックピット脇に突っ伏して号泣してしまう。
コースマーシャルは彼に対し「また次頑張ればいいじゃないか」と宥めたが、その時「俺にはもう次なんてないんだよ!」と言い返したという。
余談だがチームメイトのマルク・ジェネもレース終盤に上位を走行しており、タイトルコンテンダーのハッキネンとアーバインに本気で追い掛けられ、ハッキネンには先行を許したもののアーバインは振り切って6位入賞を果たしている。
2000年以降のレギュラードライバーのシート獲得が難しくなったバドエルは、残りのキャリアをフェラーリのテストドライバーとして過ごすことを決意する。
テストドライバーとしての評価は非常に高く、彼がテストドライバーを務めた1997年から2010年までの14年間でフェラーリはドライバーズチャンピオン6回(M・シューマッハ5回、ライコネン1回)、コンストラクターズチャンピオン8回という輝かしい成績を残している。
これらは優秀なエースドライバー、これをアシストするセカンドドライバーの活躍はもちろん、全てのレースウィークに帯同し、テストでは精力的に走り込みマシン開発の面からチームを支えた「第3のフェラーリドライバー」バドエルの功績も忘れてはならない。
最高のテスト職人として過ごしていた彼のキャリアも終盤に差し掛かったところで、思いがけない形でチャンスが巡ってくることとなった。
2009年ハンガリーGPの予選中に、前を走るバリチェロのマシンから脱落したスプリングが頭部を直撃しレギュラードライバーのフェリペ・マッサが負傷欠場を余儀なくされてしまう。
長年の貢献への感謝か、はたまた10年前に冷徹な決断をしたことに対するチームからのお詫びの気持ちもあってか、マッサの代役としてバドエルがヨーロッパGP、ベルギーGPの2戦に出走した。
しかしこの2戦のバドエルの成績はお世辞にも褒められたものではなく、
10年間実戦から離れており、2009年からはテストも大幅に削減された影響で実車に乗る機会が少なかったとは言え、あまりの惨憺たる成績に彼の名前に引っかけて「Look how bad you are」(お前がどれだけ酷いか見てみろ)と揶揄するメディアまであった。
彼の苦労人ぶりを知らない若いファンからは容赦ない批判を浴びることとなり、オールドファンはこの残酷な現実を涙無しに見ることができなかっただろう。
次戦のイタリアGPからマッサの代役はジャンカルロ・フィジケラに交代となり、2010年からはリザーブドライバーの座からも退いた(ただしこれは予め決まっていたことで、レースパフォーマンスの低さが理由ではない)。
そして2010年シーズン終了をもってスクーデリア・フェラーリを離れ、現役を引退した。
結局バドエルは18年のキャリアで51戦に出走し一度の入賞も果たすことができなかったが、これは一度も入賞できなかったドライバーの中では史上最多の出走数である(2位はシャルル・ピックの39戦)。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/02/28(金) 22:06:45 ID: L7hOPnAFQW
作成乙です!
哀愁というか悲壮感というかなんかそういうものを感じるドライバーだったなー
「オレにもう次はない」とかマッサの代理で走ったけど結果残せなかったりとか、F1の世界の厳しさも感じるよね
2 ななしのよっしん
2024/05/25(土) 19:09:50 ID: w6Enfu+IM2
実家のVHSに入ってたヨーロッパGP見てて、
中学生当時はかわいそうだなと思ってたけど
今見たら泣いちゃったよ
記事書いた人ありがとう
3 ななしのよっしん
2025/05/19(月) 17:00:21 ID: xd2OHUo6Ex
2009年はフィジケラに代わっても大して順位変わらなかったから、2009年もテストがバリバリできるレギュレーションだったらバドエルの方が普通に結果出してた。
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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