仲根正広(なかね まさひろ)とは、元プロ野球選手である。故人。
| OB | |
|---|---|
| 仲根正広 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 東京都渋谷区 |
| 生年月日 | 1954年9月24日 |
| 没年月日 | 1995年8月15日 |
| 身長 体重 |
193cm 90kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投左打 |
| 守備位置 | 外野手、投手 |
| プロ入り | 1972年 ドラフト1位 |
| 引退 | 1988年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
日本大学櫻丘高等学校へ進学。その長身姿と高校生離れしていた投球・打撃から「ジャンボ」の異名を取り、投打の中心選手として活躍。3年時には春夏連続で甲子園大会に出場。春の甲子園大会では、エースとして奮闘し、チームを全国制覇へと導いた。夏には都大会決勝戦で延長18回を投げ、引き分け再試合の末に甲子園大会に出場。本大会では優勝候補の筆頭に挙げられたが、初戦の高知商業高校相手に延長11回の熱戦の末に敗退している。
1972年ドラフト会議にて、ドラフト1位で近鉄バファローズから指名を受け入団。同期入団には有田修三・井本隆らがいた。
入団初年度の1973年、高卒ルーキーながら25試合に登板。完投でプロ初勝利を挙げたが、1試合3ボークを記録するなど粗さも目立ち、1勝8敗、防御率4.74という成績を残した。
しかし、以降は肩を故障し、1978年には登板数0に終わっている。
1979年、高校時代から打者としての才能も評価されていたことから、野手に転向。
1980年、二軍で好成績を残すと、1981年には、西本幸雄監督の勇退試合でプロ初本塁打を放った。
1982年、27試合と少ない出場機会ながら6本塁打を放つなど、長打力をアピールした。
1983年、ライトのレギュラーに定着し、打率.267、14本塁打、44打点を記録。シーズン終盤には4番打者としても起用された。
1984年、リチャード・デービスの加入により出場機会を減らしたが、打率.274、11本塁打、39打点と持ち味はしっかりと発揮。
1985年、プロ野球通算5万号本塁打を含む9本塁打を放ったが、打率は.201と数字を残せなかった。
1986年、18試合の出場に終わると、1987年は一軍出場無しに終わるなど、戦力になれなかった。
1988年、トレードで中日ドラゴンズへ移籍。左の代打の切り札として期待されたが、ノーヒットに終わり、同年限りで現役を引退。
引退後は飲食店を経営する傍ら、解説者としても活動。メジャーリーグについても学び、NHKのメジャーリーグ中継の解説も務め、高倉健出演の映画『ミスター・ベースボール』にも出演していた。
高校時代、1学年下に郷ひろみがおり、郷も野球部に入部したが、仲根の規格外のプレーを見て愕然としたというエピソードがある。
| 通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 347 | 854 | 765 | 96 | 189 | 36 | 120 | 8 | 1 | 5 | 82 | 1 | 180 | 19 | .247 | .319 |
| 通算:4年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 30 | 3 | 1 | 2 | 8 | 0 | --- | .200 | 111.2 | 80 | 70 | 56 | 54 | 4.34 |
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最終更新:2025/12/06(土) 03:00
最終更新:2025/12/06(土) 02:00
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